大徳寺寝堂・大徳寺見どころ(修学旅行)

●大徳寺寝堂は1909年(明治42年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
●大徳寺寝堂は江戸時代前期の1630(寛永7年)に毛利家の家老・益田玄蕃頭元祥(ますだげんばのかみもとなが)が建立したと言われています。
益田玄蕃頭元祥は戦国時代の1558年(永禄元年)に石見(島根県)益田領主で、益田氏第19代当主・益田藤兼(ますだふじかね)と石津経頼の娘の次男として生まれました。1568年(永禄11年)に戦国大名で、毛利氏第12代当主・毛利元就(もうりもとなり)を烏帽子親(えぼしおや)として元服し、豊臣政権五大老・毛利輝元(もうりてるもと)に仕え、上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)・備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)などに従軍し、多くの戦功を挙げました。1582年(天正10年)に父・益田藤兼から家督を譲られ、益田氏第20代当主になりました。その後毛利輝元(もうりてるもと)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に臣従すると毛利輝元とともに豊臣秀吉による天下統一に従軍し、1585年(天正13年)の四国攻め・1586年(天正14年)の九州征伐に参戦し、1596年(慶長元年)に豊臣姓が下賜されました。その後も1590年(天正18年)の小田原征伐・1592年(天正20年)に始まった文禄慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)にも従軍しました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍の総大将になり、西軍が敗れると毛利輝元は周防・長門の2か国に減封され、益田氏は領地・石見が没収され、長門に移住しました。その後長州藩(萩藩)の財政を立て直し、藩政改革を行って、益田氏は永代家老になりました。なお益田玄蕃頭元祥は1640年(寛永17年)11月5日に亡くなりました。
一般的に寝堂は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の使用する表座敷です。なお一般的に茶堂は茶の湯を行なう場所です。
●大徳寺寝堂は桁行二間・梁間三間で、切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
大徳寺見どころ

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