大徳寺浴室・大徳寺見どころ

大徳寺浴室

●大徳寺浴室は1909年(明治42年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
●大徳寺浴室は江戸時代前期の1620年(元和8年)に京都の豪商・灰屋紹由(はいやじょうゆう)が再建しました。浴室には南宋の書家・張即之(ちょうそくし)が書いた額が掛かっています。
灰屋紹由は江戸時代前期の京都の豪商で、文化人です。灰屋は屋号で、姓は佐野です。佐野家は南北朝時代の永和年間(1375年~1379年)頃から藍染(あいぞめ)に使用する紺灰(こんばい)を扱うことを生業としました。灰屋家は江戸時代初期に京の三長者と言われる茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の茶屋家(ちゃやけ)・角倉了以(すみのくらりょうい)の角倉家(すみのくらけ)・後藤四郎兵衛家(ごとうしろべえけ)の後藤家と肩を並べるようになりました。灰屋紹由は連歌を連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)から学び、公家の連歌会に列しました。また書・茶の湯・蹴鞠をよくする風流人で、風流三昧の生活を送りました。わび茶(草庵の茶) の完成者・千利休(せんのりきゅう)の弟子で、茶人・古田織部(ふるたおりべ)とも親交がありました。なお灰屋紹由は1622年(元和8年)4月26日に亡くなりました。
一般的に浴室は浴場のある建物です。古くから神道では川や滝で沐浴(もくよく)の一種である禊(みそぎ)が行われていました。飛鳥時代に仏教が伝来すると僧侶が沐浴する浴堂(湯堂)などが建立されました。ただ入浴は湯に浸かるのではなく、薬草などを入れた湯を沸かし、蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。その後社寺などに参籠する大衆用の潔斎浴場(けっさいよくじょう)も別に建てられ、大湯屋と称しました。平安時代には上級の公家の屋敷内に蒸し風呂の浴堂が取り入れられるようになり、清少納言(せいしょうなごん)の随筆「枕草子(まくらのそうし)」にも蒸し風呂の様子が記されています。ちなみに僧侶は潔斎の為に早くから湯を別の湯槽に入れて行水することもあったが、大衆は長く蒸し風呂形式で、江戸時代初期に湯に浸かる浸す方式になりました。なお浴室は禅宗寺院で本尊を安置する仏殿(金堂)・仏国土に至る三門(山門)・僧侶の居住する庫裏(くり)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・仏道修行に励む禅堂(そうどう)・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられています。また浴室は僧堂・東司とともに私語を謹む三黙堂(さんもくどう)に数えられています。
張即之は鎌倉時代初期に当たる1186年に和州 (中国安徽省) に寧宗朝の参知政事・張孝伯の子として生まれました。能書で天下に聞こえた伯父・張孝祥(ちょうこうしょう)の影響を受け、米ふつ (べいふつ) ・ちょ遂良 (ちょすいりょう) の筆法を学びました。1246年(寛元4年)に来日した建長寺(けんちょうじ)開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が張即之の書風をもたらし、日本からの入宋した禅僧が多くの筆跡をもたらしました。張即之は強い筆力による気迫に富む書風で、扁額などの大字に優れ、鎌倉時代以降の日本の書道に大きな影響を与えました。智積院の「金剛経(国宝)」・東福寺の「方丈」などの禅院額字12幅 (国宝)などが知られています。
●大徳寺浴室は桁行六間・梁間五間で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
大徳寺見どころ

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