永観堂阿弥陀堂・永観堂見どころ

永観堂阿弥陀堂

●永観堂阿弥陀堂は安土桃山時代の1597年(慶長2年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂・四天王寺(してんのうじ)の曼荼羅堂(まんだらどう)として建立し、江戸時代初期の1607年(慶長12年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が移して建立したとも言われています。永観堂阿弥陀堂は移建当初極楽浄土を思わせる彩色が堂内外に施されていたそうです。永観堂阿弥陀堂では2006年(平成18年)から調査が行われ、調査結果に基づき、法然上人800回大遠忌記念事業として彩色が復元されました。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。
四天王寺は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」によると飛鳥時代初期の593年(推古天皇元年)に第31代・用明天皇の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)が摂津難波の荒陵(あらはか)に創建したと言われています。聖徳太子は崇仏派の大臣(おおおみ)・蘇我馬子(そがのうまこ)と排仏派の大連(おおむらじ)・物部守屋(もののべのもりや)による丁未の乱(ていびのらん・物部守屋の変)の際、崇仏派の形勢不利を打開する為に自ら四天王像を刻み、勝利したら四天王を安置する寺院を創建し、この世の全ての人々を救済すると誓願され、勝利後にその誓願を果たす為に創建したと言われています。
●永観堂阿弥陀堂にはみかえり阿弥陀と言われる本尊・木造阿弥陀如来立像(重要文化財)が安置されています。
木造阿弥陀如来立像は頭部を左側に向け、躰部を左側に少し傾け、左足の膝を軽く曲げて足先をわずかに前に出した特異な像容をしています。木造阿弥陀如来立像は像高約77.6センチです。木造阿弥陀如来立像はかつては鎌倉時代に造仏されたとも思われていたが、平安時代後期(12世紀後半)に造仏されたと言われています。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は弥陀仏(阿弥陀佛)・無量光仏(むりょうこうぶつ)・無量寿仏(むりょうじゅぶつ)とも言われています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。阿弥陀如来は紀元100年頃に編纂された大乗仏教の経典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」によると世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで出家して修行していた時、法蔵比丘(ほうぞうびく)という菩薩(法蔵菩薩( ほうぞうぼさつ))であったが、48の誓願(四十八願 (しじゅうはちがん))を立てて修行して仏になり、仏国土である極楽浄土(ごくらくじょうど)を設立して現在もそこで説法しているとされています。阿弥陀如来は飛鳥時代(7世紀前半)に日本に伝わり、平安時代中期以降に隆盛して阿弥陀如来像が造仏され、鎌倉時代に念仏によって極楽浄土に往生できるという阿弥陀信仰が盛んになり、法然上人(ほうねんしょうにん)を宗祖とする浄土宗(じょうどしゅう)・親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖とする浄土真宗(じょうどしんしゅう)・一遍上人(いっぺんしょうにん)を宗祖とするを時宗が成立しました。
永観堂見どころ

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