永観堂弁天社・永観堂見どころ

永観堂弁天社

●永観堂弁天社は江戸時代後期の1866年(慶応2年)に尼僧で、歌人・大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の寄進によって放生池(ほうじょうち)の弁天島に建立されました。永観堂弁天社には大田垣蓮月が書いた額が掛かっています。
大田垣蓮月は江戸時代後期の1791年(寛政3年)2月10日に伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖(とうどうよしきよ)の娘として京都で生まれました。生後10日で京都・知恩院門跡(ちおいんもんざき)に勤仕する坊官・大田垣光古(おおたがきてるひさ)の養女になりました。1798年(寛政10年)頃から生母が丹波亀山藩の藩士の妻となったこともあり、丹波亀山城で御殿奉公をして10年ほど亀山で暮らしました。1807年(文化4年)頃に養父・大田垣光古の養子・大田垣望古(おおたがきもちひさ)と結婚し、長男・長女・次女が生まれたが、いずれも幼くして亡くなり、1815年(文化12年)に夫・大田垣望古も亡くなって25歳で寡婦になりました。1819年(文政2年)に養父・大田垣光古の養子・大田垣古肥(おおたがきひさとし)と再婚して娘をもうけたが、1823年(文政6年)に夫・大田垣古肥が亡くなりました。その後養父・大田垣光古とともに剃髪して出家しました。大田垣蓮月は歌道を公卿・歌人である千種有功(ちぐさありこと)に学び、自詠の歌を書いた陶器・蓮月焼を焼いて生活の資とし、清廉孤高の生涯を送りました。また京都で飢饉が起こった際に私財を投げ打って寄付したり、鴨川に丸太町橋を架けたりするなど慈善活動も行いました。なお大田垣蓮月は1875年(明治8年)12月10日に亡くなりました。
放生池(ほうじょうち)は捕らえた魚などを殺さずに放す放生会(ほうじょうえ)を行う為の池です。
●永観堂弁天社は一間社流造(いっけんしゃながれづくり) の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
永観堂見どころ

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