永観堂方丈・永観堂見どころ(修学旅行)

永観堂方丈

●永観堂方丈は寺伝によると室町時代の永正年間(1504年~1521年)に第104代・後柏原天皇が建立したとも言われています。また江戸時代前期の1627年(寛永4年)に建立されたとも言われています。
第104代・後柏原天皇は室町時代中期の1464年(寛正5年)11月19日に第103代・後土御門天皇と典侍・庭田朝子(にわたあさこ)の第1皇子として生まれました。1480年(文明12年)に親王宣下を受け、1500年(明応9年)10月に第103代・後土御門天皇が崩御すると天皇に即位しました。応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって朝廷・室町幕府の財政は逼迫し、第103代・後土御門天皇は生前に譲位ができず、第103代・後土御門天皇の葬儀・大葬も泉涌寺 (せんにゅうじ)の奔走によって43日目に行われました。また第104代・後柏原天皇の即位の礼も21年後の1521年(大永元年)3月に室町幕府や本願寺9世・実如(じつにょ)の献金によって行われました。即位の礼は室町幕府第10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)が管領・細川高国(ほそかわたかくに)と対立して京都から出奔したことから実施が危ぶまれたが、激怒した第104代・後柏原天皇が強行しました。第104代・後柏原天皇は中絶した朝儀の復活に努め、仏教を深く帰依しました。天然痘(てんねんとう)が流行した際に「般若心経(はんにゃしんぎょう)」を書写して万民の安穏を祈念し、延暦寺(えんりゃくじ)・仁和寺(にんなじ)に奉納しました。また詩歌・管絃・書道にも秀でていました。なお第104代・後柏原天皇は1526年(大永6年)5月18日に崩御しました。
一般的に方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院の住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。方丈は大乗仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」にインドの在家仏徒・維摩居士(ゆいまこじ)が神通力で1丈四方の部屋に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)など8,000人の菩薩や仏弟子である500人の声聞(しょうもん)を招き入れたという故事に由来しています。そこから方丈に全宇宙が内在し、住職の居室を方丈というようになりました。方丈は堂頭(どうちょう)・堂上(どうじょう)・正堂(しょうどう)・函丈(かんじょう)とも言われています。なお「維摩経」は仏教伝来とともに伝わったとも言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)の注釈書「維摩経義疏(三経義疏(さんぎょうぎしょ))」が残されています。
●永観堂方丈は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらふき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
永観堂見どころ

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