永観堂岩垣もみじ・永観堂見どころ

永観堂岩垣もみじ

●永観堂岩垣もみじは永観堂(禅林寺)の前身である別荘・東山山荘に住した貴族・文人である藤原関雄(ふじわらのせきお)が勅撰和歌集「古今和歌集」で「おく山の 岩がき紅葉 散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」と詠んだことに由来しています。なお永観堂は古くから「秋はもみじの永観堂」と言われる「もみじの寺」で、紅葉の名所です。永観堂では例年11月中旬頃から11月下旬頃に紅葉が見ごろを迎え、紅葉ライトアップが行われています。(要確認)
藤原関雄は平安時代初期の805年(延暦24年)に参議・藤原真夏(ふじわらのまなつ)の五男として生まれました。天長2年(825年)春に官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)で、中国の詩文・歴史を学ぶ文章道(もんじょうどう)を専攻する文章生(もんじょうのしょう)の試験に合格しました。「六国史(りっこくし)」の第五にあたる「日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)・平安時代前期編纂」によると閑退を好んで出仕せず、常に別荘・東山山荘にあって林泉を耽愛したことから東山進士(ひがしやましんし)とも言われました。進士は律令制において式部省が行った秀才(しゅうさい)・明経(みょうぎょう)に次ぐ第三の官吏登用試験の合格者のことです。834年(承和元年)に淳和上皇(第53代・淳和天皇)が人となりを賞賛し、再三要請して召し出そうとしたが、一旦辞退したものの遂に応じ、淳和上皇の近臣に迎えられました。淳和上皇から琴の秘譜を送られ、淳和上皇ゆかりの離宮である南池院・雲林院の壁に文字を書いたとも言われています。翌835年(承和2年)に地方行政を監査する勘解由判官(かげゆはんがん)に任ぜられるが、激務を好まなかったことから数ヶ月後に少判事(しょうはんじ)に転任しました。第54代・仁明天皇の時代(833年(天長10年)~850年(嘉祥3年))に刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)・下野守(しもつけのかみ)、第55代・文徳天皇の時代(850年(嘉祥3年)~858年(天安2年))に諸陵頭(しょりょうのかみ)・治部少輔(じぶのしょう)・斎院長官(さいいんのかみ)を歴任しました。その後病気で官職の辞退を申し出るが、認められないまま853年(仁寿3年)3月26日に亡くなりました。藤原関雄は音楽・書に優れ、勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)・平安時代前期編纂」に2首「おく山の 岩がき紅葉 散りぬべし 照る日の光 見る時なくて(巻五283)」・「霜のたて 露のぬきこそ 弱からし 山の錦の 織ればかつ散る(巻五291)」が残されています。
永観堂見どころ

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