永観堂御影堂・永観堂見どころ

永観堂御影堂

●永観堂御影堂は1912年(大正元年)に建立されました。御影堂は「仏説無量寿経(むりょうじゅきょう)」に説かれている阿弥陀四十八本願(しじゅうはちがん)に因んで、48本の丸柱が使われています。永観堂御影堂では雨漏りの為、法然上人800回大遠忌記念事業として屋根瓦(4万4千枚)の総葺き替えが行われました。
一般的に御影堂は寺院の開基(かいき)・開山(かいさん)や宗祖の像を安置した堂塔です。御影堂は奈良時代頃から開山の没後に敬慕の心を込めて建立されるようになりました。御影堂は祖師堂(そしどう)・開山堂などとも言われています。
阿弥陀四十八本願は阿弥陀如来が法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ )だった時に仏に成る為の修行に先立って立てました。ちなみに第一願が無三悪趣、第二願が不更悪趣、第三願が悉皆金色、第四願が無有好醜、第五願が宿命智通、第六願が天眼智通、第七願が天耳智通、第八願が他心智通、第九願が神境智通、第十願が速得漏尽、第十一願が住正定聚、第十二願が光明無量、第十三願が寿命無量、第十四願が声聞無数、第十五願が眷属長寿、第十六願が無諸不善、第十七願が諸仏称揚、第十八願が念仏往生、第十九願が来迎引接、第二十願が係念定生、第二十一願が具足諸相、第二十二願が必至補処、第二十三願が供養諸仏、第二十四願が供具如意、第二十五願が説一切智、第二十六願が那羅延身、第二十七願が所須厳浄、第二十八願が見道場樹、第二十九願が得弁才智、第三十願が智弁無窮、第三十一願が国土清浄、第三十二願が国土厳飾、第三十三願が触光柔軟、第三十四願が聞名得忍、第三十五願が女人往生、第三十六願が常修梵行、第三十七願が人天致敬、第三十八願が衣服随念、第三十九願が受楽無染、第四十願が見諸仏土、第四十一願が諸根具足、第四十二願が住定供仏、第四十三願が生尊貴家、第四十四願が具足徳本、第四十五願が住定見仏、第四十六願が随意聞法、第四十七願が得不退転、第四十八願が得三法忍です。
●永観堂御影堂は内陣の須弥壇に浄土宗の宗祖・法然上人を祀っています。
法然上人は平安時代後期の1133年(長承2年)4月7日に美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使(おうりょうし)・漆間時国(うるまときくに)と秦氏君(はたうじのきみ)清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に9歳で父・漆間時国が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚(かんがく)のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に15歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に登って源光(げんこう)に師事して天台(てんだい)を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空(えいくう)のもとで修業し、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導(ぜんどう)の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」や天台宗の僧である恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)の「往生要集(おうじょうようしゅう)」により、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号を口に出して称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)に専修する悟りに達し、浄土宗を開きました。京都吉水(よしみず)に草庵を結んで老若貴賤(ろうにやくきせん)に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺(こうふくじ)・比叡山延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)1月25日に東山大谷(京都市東山区)で亡くなりました。
永観堂見どころ

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