永観堂与謝野晶子の歌碑・永観堂見どころ(修学旅行)

永観堂与謝野晶子の歌碑

●永観堂与謝野晶子(よさのあきこ)の歌碑は放生池(ほうじょうち)・寿橋近くに建立されています。与謝野晶子の歌碑には歌「秋を三人 椎の実なげし 鯉やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき」が記されています。与謝野晶子は1900年(明治33年)11月5日に与謝野鉄幹(よさのてっかん)・山川登美子(やまかわとみこ)とともに訪れ、翌1901年(明治34年)春にも与謝野鉄幹とともに訪れたそうです。与謝野晶子・山川登美子はともに与謝野鉄幹を慕い、1901年(明治34年)に与謝野晶子と与謝野鉄幹が結婚し、山川登美子も別の男性と結婚しました。
与謝野晶子は1878年(明治11年)12月7日に老舗和菓子屋・駿河屋を営む鳳宗七(ほうそうしち)と津祢(つや)の三女・鳳志よう(ほうしょう)として堺県和泉国第一大区甲斐町で生まれました。家業が傾きかけ、三女であったことから両親から疎まれて育ったとも言われています。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も倣い、その後堺市立堺女学校(大阪府立泉陽高等学校)に入学して「源氏物語」などの古典に親しみました。また「柵草紙(めざまし草)」・「文学界」も読み、20歳頃から店番をしながら和歌を投稿するようになりました。その後浪華青年文学会に参加し、1900年(明治33年)に歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、与謝野鉄幹が創立した新詩社の機関誌「明星(みょうじょう)」に短歌を発表しました。翌1901年(明治34年)に東京に上京し、激しい恋心と若い女の官能を謳い上げた処女歌集「みだれ髪(鳳晶子)」を刊行し、その後与謝野鉄幹と結婚しました。1904年(明治37年)9月に「君死にたまふことなかれ」を「明星」に発表し、1911年(明治44年)に史上初の女性文芸誌「青鞜(せいとう)」創刊号に詩を寄稿しました。1921年(大正10年)に建築家・西村伊作、画家・石井柏亭らとともにお茶の水に文化学院を創設し、日本初の男女共学を成立させました。与謝野晶子は12人の子どもを産んで育て、与謝野鉄幹の詩の売れ行きが悪くなった家計も支えました。与謝野晶子は「小扇・(1904年)」、「恋衣(共著)・(1905年)」、「佐保姫・(1909年)」、「青海波(せいがいは)・(1912年)」、「火の鳥・(1919年)」、「流星の道・(1924年)」、「心の遠景・(1928年)」などを発表しました。なお与謝野晶子は1940年(昭和15年)に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)に意識不明になり、1942年(昭和17年)5月29日に亡くなりました。
放生池は捕らえた魚などを殺さずに放す放生会(ほうじょうえ)を行う為の池です。放生会はお釈迦様の前世である流水長者(るすいちょうじゃ)が池の水の涸渇により、死に掛けた魚を助け、説法して放生したところ魚は三十三天(さんじゅうさんてん・とう利天)に転生し、感謝・報恩したということが起源とも言われています。また放生会は仏教の教えである五戒(ごかい)のひとつで、生き物を殺してはならないという不殺生戒(ふせっしょうかい)に由来しているとも言われています。なお日本最初の放生会は飛鳥時代の677年(天武天皇6年)に行われたとも言われています。
永観堂見どころ

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