永観堂瑞紫殿・永観堂見どころ

永観堂瑞紫殿

●永観堂瑞紫殿は1895年(明治28年)に再建されました。永観堂瑞紫殿は永観堂開山・真紹僧都(しんじょうそうず)が安置した5体の仏像の内、4体の仏像とともに室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の東岩倉の合戦で焼失しました。右手が焦げただけで、焼け残った阿弥陀如来坐像は「火除けの阿弥陀」と言われています。なお瑞紫殿はかつて伝法堂(でんぽうどう)と言われていました。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は弥陀仏(阿弥陀佛)・無量光仏(むりょうこうぶつ)・無量寿仏(むりょうじゅぶつ)とも言われています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。阿弥陀如来は紀元100年頃に編纂された大乗仏教の経典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」によると世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで出家して修行していた時、法蔵比丘(ほうぞうびく)という菩薩(法蔵菩薩( ほうぞうぼさつ))であったが、48の誓願(四十八願 (しじゅうはちがん))を立てて修行して仏になり、仏国土である極楽浄土(ごくらくじょうど)を設立して現在もそこで説法しているとされています。阿弥陀如来は飛鳥時代(7世紀前半)に日本に伝わり、平安時代中期以降に隆盛して阿弥陀如来像が造仏され、鎌倉時代に念仏によって極楽浄土に往生できるという阿弥陀信仰が盛んになり、法然上人(ほうねんしょうにん)を宗祖とする浄土宗(じょうどしゅう)・親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖とする浄土真宗(じょうどしんしゅう)・一遍上人(いっぺんしょうにん)を宗祖とするを時宗が成立しました。
応仁の乱(応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん))は足利将軍家ならびに管領・畠山氏(はたけやまし)と斯波氏(しばし)の継嗣問題に端を発し、東軍総大将・細川勝元(ほそかわかつもと)方と西軍総大将・山名宗全(やまなそうぜん)方に分れ、約11年間にわたって京都を中心として争われた大乱です。足利将軍家では室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)には当初嗣子なく、管領・細川勝元とともに1464年(寛正5年)11月25日に弟で、天台宗(てんだいしゅう)浄土院(じょうどいん)の門跡・義尋(ぎじん)を還俗させ、足利義視(あしかがよしみ)として将軍職に就けようとしました。しかし1465年(寛正6年)11月23日に足利義政の正室・日野富子(ひのとみこ)が室町幕府第9代将軍となる足利義尚(あしかがよしひさ)を生んだことから日野氏は山名宗全とともに足利義尚を将軍職に就けようとしました。
●永観堂瑞紫殿に安置されている阿弥陀如来坐像(「火除けの阿弥陀」)は真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が火除けの願を立てて刻んだ霊像とも言われています。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ正確な誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
永観堂見どころ

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