延暦寺大書院・延暦寺見どころ

延暦寺大書院

●延暦寺大書院は1919年(大正8年)頃に「煙草王」とも言われた京都の実業家・村井吉兵衛(むらいきちべえ)が第122代・明治天皇の女官で、後妻になった山茶花の局・薫子(かをこ)の為に東京都千代田区山王台に建てた山王荘だったが、1928年(昭和3年)に比叡山に移されました。なお山茶花の局・薫子は美人の誉れ高く、亀井至一(かめいしいち)が「山茶花の局(美人弾琴図)」を描きました。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
村井吉兵衛は幕末(江戸時代末期)の1864年(文久4年)2月29日に京都の煙草商の次男として生まれました。1872年(明治5年)9歳で叔父・吉右衛門の養子になって煙草の行商を始め、1878年(明治11年)に家督を相続しました。1891年(明治24年)に日本初の両切り紙巻き煙草を製造して「サンライス」と名付けて発売し、翌1892年(明治25年)に東京日本橋区室町に支店を出しました。その後アメリカからアメリカ葉・ボンサック式巻き上げ機を導入し、1894年(明治27年)に「ヒーロー」を発売し、5年後に年間生産量が日本一になりました。1900年(明治33年)のパリ万博で金賞を受賞しました。しかし1904年(明治37年)に煙草専売法が施行され、莫大な補償金を手にしました。その後村井銀行を設立し、日本石鹸・村井カタン糸など事業を多角化して財閥を形成しました。なお村井吉兵衛は1926年(大正15年)1月2日に死亡しました。
●延暦寺大書院は木造2階建で、桟瓦葺(さんがわらぶき)、一部銅板葺(どうばんぶき)です。延暦寺大書院は建築家・武田五一(たけだごいち)が設計し、二条城の黒書院の様式を写した旭光(きょっこう)の間や総ヒノキ造りの玄関などがあります。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
二条城黒書院(桁行正面七間・背面八間・梁間右側面六間・左側面八間)は小広間で、将軍と親藩・譜代大名のみが入ることができ、内輪の謁見が行われました。なお二条城黒書院は本瓦葺の入母屋造です。
延暦寺見どころ

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