延暦寺文殊楼・延暦寺見どころ(修学旅行)

延暦寺文殊楼

●延暦寺文殊楼は2016年(平成28年)7月25日に国の重要文化財に指定されました。
●延暦寺文殊楼は江戸時代前期の1668年(寛文8年)の火災で焼失したが、その後1668年(寛文8年)に再建されました。延暦寺文殊楼はかつて平安時代前期に第3代天台座主である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って建立したと言われています。延暦寺文殊楼には二階に文殊菩薩が安置されています。なお延暦寺文殊楼は根本中堂の真東にあり、山門になります。
文殊菩薩は菩薩の一尊で、一般的に普賢菩薩(ふげんぼさつ)とともに釈迦如来(しゃかにょらい)の脇侍とされています。文殊菩薩は智慧を司り、「三人寄れば文殊の智恵」ということわざの由来になっています。文殊菩薩は般若波羅蜜(はんにゃはらみった)を説き、般若経(はんにゃ)を編集したとも言われています。「華厳経」では東方清涼山に住むとされ、中国五台山の清涼寺が霊地にあたるとされています。
慈覚大師・円仁は平安時代初期の794年(延暦13年)に下野国(栃木県)に生まれました。808年(大同3年)15歳で唐(中国)から帰国した天台宗の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)に師事し、その後伝教大師・最澄最期の14年間に仕えました。814年(弘仁5年)に言試(国家試験)に合格し、翌815年(弘仁6年)に得度しました。816年(弘仁7年)に奈良・東大寺(とうだいじ)で具足戒(ぐそくかい)を受け、822年(弘仁13年)に伝教大師・最澄から一心三観の妙義を授けられ、その後伝教大師・最澄は亡くなりました。829年(天長6年)から横川に隠棲して苦修練行を続け、838年(承和5年)に最後の遣唐使として唐(中国)に渡りました。慈覚大師・円仁は入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・恵運・円珍・宗叡)の一人です。840年(承和7年)に中国五台山を巡礼して最高峰の標高3,058メートルの北台叶斗峰に登り、その後大興善寺(だいこうぜんじ)の元政から灌頂(かんじょう)を受け、青竜寺(せいりゅうじ)の義真からも灌頂を受けました。847年(承和14年)に仏典・金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)などを持って帰国し、848年(嘉祥元年)に比叡山に戻り、854年(斉衡元年)に第3代天台座主に就きました。なお慈覚大師・円仁は864年(貞観6年)2月24日に亡くなりました。
一般的に山門(三門)は一切は空と悟る空門(くうもん)・一切の執着を離れた無相門(むそうもん)・一切の願求(がんぐ)の念を捨てる無願門(むがんもん)の三境地を経て、仏国土(ぶっこくど)に至る門・三解脱門(さんげだつもん)のことです。山門は寺院の正門で、禅宗七堂伽藍(山門・本尊を安置する仏殿(金堂)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・坐禅など仏道修行に励む僧堂(そうどう)・僧侶が居住する庫裏(くり)・トイレである東司(とうす)・浴室である浴室(よくどう))に数えられています。なお山門は本来山上に建てられた寺院の門のことを言っていたが、現在は平地に建てられた寺院の門のことも言います。
●延暦寺文殊楼は重層の楼閣で、入母屋造(いりもやづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
延暦寺見どころ

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