延暦寺転法輪堂(釈迦堂)・延暦寺見どころ

延暦寺転法輪堂(釈迦堂)

●延暦寺転法輪堂(釈迦堂)は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●延暦寺転法輪堂(釈迦堂)は元々南北朝時代の1347年(正平2年)に建立された三井寺(みいでら・園城寺(おんじょうじ))・弥勒堂(金堂)だったが、安土桃山時代の1595年(文禄4年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が無理やり移したとも言われています。転法輪堂は延暦寺山内では最古の建物です。かつての延暦寺転法輪堂は戦国時代(室町時代後期)の1571年(元亀2年)9月12日に織田信長(おだのぶなが)による比叡山焼き討ちによって焼失したとも言われています。
三井寺(園城寺)は寺伝によると飛鳥時代の686年(朱鳥元年)に第39代・弘文天皇(大友皇子(おおとものおうじ))の皇子・大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が672年(天武天皇元年)の壬申の乱(じんしんのらん)で第40代・天武天皇(大海人皇子(おおあまのみこ))と皇位を争って敗れた父である第39代・弘文天皇(大友皇子)の霊を弔う為に田園城邑(じょうゆう)を寄進して創建したのが起源とも言われています。第40代・天武天皇は三井寺の建立を許可し、寺号「園城寺」を与えたとも言われています。その後平安時代前期の貞観年間(859年~877年)に天台寺門宗(寺門派)の宗祖である智証大師(ちしょうだいし)・円珍(えんちん)が天台別院として再興し、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうふくじ)・延暦寺(えんりゃくじ)とともに本朝四箇大寺(しかたいじ)に数えられました。しかし智証大師・円珍の死後に延暦寺(山門派)との対立(山門寺門の抗争)が激化して度々焼き討ちされたり、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって寺領を没収されたりして廃寺同然になった時期があったが、その都度再興されてきたことから不死鳥の寺とも言われています。なお三井寺の名称は寺に涌く霊泉が第38代・天智天皇、第40代・天武天皇、第41代・持統天皇の産湯に使われたことから御井(みい)の寺と言われ、そのこら三井寺になったと言われています。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
一般的に釈迦堂は釈迦如来像を本尊とする建物です。
延暦寺見どころ

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