慧照院椿見ごろ2024(4月中旬~下旬頃)

慧照院椿見ごろ(見頃)

慧照院椿見ごろ(イベント・・・)を紹介。慧照院には方丈の前庭に樹齢120年とも、樹齢140年とも言われる五色散椿が植えられています。前庭は苔に覆われ、飛び石が置かれています。また灯籠・五重石塔も置かれています。なお慧照院は通常非公開だが、五色散椿が見ごろを迎える時期に特別公開されます。(詳細下記参照)

【慧照院椿見ごろ(例年時期)】
慧照院の椿見ごろは例年4月中旬頃から4月下旬頃です。なお椿の見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。京都椿名所・見ごろ

【慧照院椿見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市右京区花園坤南町3
最寄り駅・バス停・・・妙心寺前(徒歩約5分)、花園駅前(徒歩約10分)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅からは26系統(D3乗り場)
*四条烏丸からは26系統、91系統
*四条河原町からは10系統
*河原町丸太町からは10系統、93系統
路線・時刻表・運賃チェック

*JR嵯峨野線の場合、最寄り駅は花園駅(徒歩約10分)

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【慧照院椿見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
慧照院は京都で良く知られている椿の名所です。慧照院の見ごろは例年4月中旬頃から4月下旬頃です。
慧照院には方丈の前庭に樹齢120年とも、樹齢140年とも言われる五色散椿が植えられています。前庭は苔に覆われ、飛び石が置かれています。また灯籠・五重石塔が置かれていたり、松などが植えられたりしています。なお慧照院は通常非公開だが、五色散椿が見ごろを迎える時期に特別公開されます。特別公開では湯茶などの接待が行われることもあります。(要確認)ただ拝観には拝観日の3日以前に連絡し、許可を得る必要があります。(要確認)
五色散椿は中輪の八重咲きです。五色散椿は白地に紅の縦絞りが基本色で、白・淡い紅・桃地・白覆輪などに咲分けます。五色散椿は葉が楕円で、やや小形です。
椿は日本原産のツバキ科ツバキ属の常緑樹(照葉樹林)です。椿は北海道などを除く、日本各地に自生しています。椿は日本最古の正史「日本書紀」に第12代・景行天皇が熊襲(くまそ)の乱を鎮めた際、土蜘蛛(つちぐも)に対して海石榴(ツバキ)の椎を用いたと記されています。椿は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉が茶の湯に好んで用いると茶道で茶花として重要な地位を占めるようになりました。椿は江戸時代以降に多くの園芸品種が作られ、500以上の園芸品種があると言われています。なお椿は邪悪を祓うとも言われ、正倉院には災いを祓う海石榴の卯杖(うづえ)が収められています。

【慧照院 歴史・簡単概要】
慧照院(えしょういん)・五色散椿の寺は江戸時代前期の1623年(元和9年)に越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主・松平忠昌(まつだいらただまさ)が正室・花姫の菩提所として、妙心寺の北門付近に創建しました。慧照院は当初花姫の法号「黄梅院殿」に因み、黄梅院(おうばいいん)と称していました。松平忠昌は江戸幕府初代将軍・徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)の次男として大坂で生まれ、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠から偏諱を賜り、「忠昌」と名乗ります。大坂の陣に参戦して加増移封され、兄・松平忠直が不行跡で配流されると越前北ノ荘(福井)50万石を継承しました。花姫は紀伊和歌山藩初代藩主・浅野幸長(あさのよしなが)の娘として生まれ、その後松平忠昌の正室になり、18歳で亡くなりました。その後衰退し、江戸時代中期の宝永年間(1704年~1711年)に大春(だいしゅん)が中興し、慧照院に寺号を改められました。その後現在の場所に移り、1878年(明治11年)に華獄院(かごくいん)を合寺しました。
慧照院は臨済宗妙心寺派大本山・妙心寺の塔頭です。

【慧照院椿見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
慧照院(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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