不動堂(石不動明王・開扉法要・御開帳・・・)金閣寺見どころ
不動堂(石不動明王・開扉法要・御開帳・・・)
不動堂を解説します。不動堂には真言宗の宗祖である弘法大師・空海作とも言われている本尊・石不動明王を安置しています。不動堂では節分と五山送り火の日に開扉法要が行われ、秘仏とされる石不動明王が御開帳(一般公開)されます。(詳細下記参照)
【不動堂の概要・概略】
- 概要・概略:不動堂(ふどうどう)は金閣寺山内の最古の建物で、茶室・夕佳亭(せっかてい)の東南にあります。不動堂には真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が造仏したとも言われている本尊・石不動明王(ふどうみょうおう)を安置しています。また鎌倉時代に造仏された不動明王立像(重要文化財)も安置しています。なお不動堂は江戸時代(1603年~1868年)から既に庶民に信仰されていました。
- 不動明王:不動明王は密教(みっきょう)の根本尊である大日如来(だいにちにょらい)の化身(けしん)とされ、五大明王(ごだいみょうおう)の中心となる明王です。ちなみに五大明王は不動明王・降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)です。不動明王はヒンドゥー教の最高神・シヴァ神が起源とされ、平安時代初期の804年(延暦23年)に遣唐使(けんとうし)として唐(中国)に渡った弘法大師・空海が806年(大同元年)に密教とともに唐から不動明王の図像を持ち帰ったと言われています。
- 様式・形式:不動堂は屋根が入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。なお不動堂は不動明王を安置する石室礼堂として建立されたとも言われています。
【不動堂の歴史・時代】
- 歴史・時代:不動堂は金閣寺創建前、鎌倉時代前期の1225年(嘉禄元年)に公卿(くぎょう)・西園寺公経(さいおんじきんつね)が山荘・北山第(きたやまてい)を造営し、その後創建した浄土宗(じょうどしゅう)の氏寺・西園寺に建立されていたとも言われています。不動明王立像(重要文化財)は西園寺の護摩堂に安置されていた旧本尊と言われています。また不動堂は室町時代中期の1458年(長禄2年)頃に建立されたとも言われています。ただ応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))で焼失し、安土桃山時代の天正年間(1573年~1592年)に豊臣政権の五大老の一人だった宇喜多秀家(うきたひでいえ)が再建しました。不動堂は金閣寺山内の最古の建物とも言われています。1962年(昭和37年)には解体・修理が行われました。
- 宇喜多秀家:宇喜多秀家は1572年(元亀3年)に備前岡山城主・宇喜多直家(うきたなおいえ)の次男として生まれ、父・宇喜多直家の死後の1582年(天正10年)に織田信長(おだのぶなが)の計らいで家督を継ぎました。本能寺の変後は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の寵愛を受け、「秀」の字を与えられて猶子になり、1586年(天正14年)に豊臣秀吉の養女(前田利家(まえだとしいえ)の娘)・豪姫(ごうひめ)を正室にしました。また1587年(天正15年)に本姓「豊臣」と名字「羽柴」を与えられ、1598年(慶長3年)には五大老の一人になりました。ただ1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後には八丈島に配流されました。
【不動堂と石不動明王】
- 石不動明王:石不動明王は不動堂の本尊として西側を向いて安置されています。石不動明王は高さ約164センチ・肩幅約55センチで、後方に石造の光背があります。左側には体長約46セン・高さ約24センの狛犬が南を向いて置かれています。ちなみに本尊の左右には花崗岩製の石柱と台があり、かつて二童子像も安置されていました。石不動明王は真言宗の宗祖である弘法大師・空海が造ったとも言われています。石不動明王は1年に2回、節分の日と五山送り火が行われる日(8月16日)だけにしか開扉されない秘仏とされています。石不動明王は首から上の病気、特に眼の病気にご利益があると言われています。なお石不動明王は西園寺公経が創建した氏寺・西園寺の遺仏とも言われています。
- 弘法大師・空海:空海は774年(宝亀5年)に佐伯直田公の子として生まれました。789年(延暦8年)に母方の叔父・阿刀大足のもとで論語などを学び、792年(延暦11年)に大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐に渡り、長安で青竜寺の恵果のもとで密教を学び、遍照金剛の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。空海は835年(承和2年)に高野山で亡くなりました。
【不動堂と不動明王立像】
- 概要:木造不動明王立像(重要文化財)は石不動明王とともに不動堂に安置されています。木造不動明王立像は西園寺公経が創建した氏寺・西園寺の護摩堂に安置されていた本尊と言われています。
- 氏寺・西園寺:西園寺には創建時の資料が残されていないそうです。西園寺公経はこの地の所有者 だった神祇官・伯家に自らの所領・尾張国松枝庄との交換を申し入れて入手しました。西園寺では1224年(元仁元年)に盛大な落慶供養が行われ、翌1225年(元仁2年)に藤原定家が訪れ、その趣が比類のない斬新なもので、高さ四十五尺の滝と碧瑠璃をたたえたように美しい池に驚きました。西園寺には不動堂・五大堂・妙音堂・善積院・功徳蔵院・成就心院・法水院・化水院・無量光院などがありました。なお西園寺は北山第とともに地上の仙境(せんきょう)・此岸(しがん)の浄土(じょうど)と言われ、関白・藤原道長が創建した法成寺に勝るとも劣らないと言われました。
【不動堂の石室】
- 石室:石室は幅が最大約2メートル・奥行きが最大2.5メートルです。石室には板状の緑色片岩などの自然石が使われ、大きい石は幅約1メートル・長さ1.6メートル以上にもなります。石室の中には造高約164センチ・肩幅約55センチの本尊・石不動明王が西向きに建立されています。かつて二童子像も安置されていたと言われています。
- 石室内:石室内には「庚永元(1342年)暮秋下旬」・「庚永二年(1343年)六月」・「庚永四(1345年)」・「貞和二(1346年)五廿四」・「文和二年(1353年)拾月十七日」「應永十二年(1405年)四月十九日」・「南無不動明王」・「南無妙法蓮華経」・「南無阿弥陀佛」・「南無伍大力菩薩」・「南無大聖」・「南無」・「明王」・「兵衛五郎」・「七郎」・「国久」・「賢範」・「重久」などの年号・名号・題目・人名・梵字・線刻画などが刻まれています。
【不動堂の開扉法要・御開帳】
- 開扉法要:開扉法要(かいひほうよう)は1年に2回、節分(2月)と五山送り火(8月16日)の日に行われます。開扉法要では不動堂の本尊で、秘仏とされる石不動明王が開扉され、御開帳(一般公開)されます。なお開扉法要では大般若経(だいはんにゃきょう)の祈祷が行われます。
- 節分:節分は元は季節の節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指すことが多くなりました。なお季節の節目には邪気が生じるとされています。
- 五山送り火:五山送り火は毎年お盆の翌日である8月16日に行われます。五山送り火はお精霊さん(死者の霊)をあの世(冥府)へ送り届ける仏教的行事です。
【不動堂の大護摩供奉修】
- 大護摩供奉修:大護摩供奉修(おおごまくぼうしゅう)は11月28日に行われます。大護摩供奉修では先ず不動堂の前で般若心経を唱え、不動堂前に設けられた斎場で、山伏が東西南北などに矢を放つ法弓の儀(ほうきゅうのぎ)・剣を素早く振る法剣の儀(ほうけんのぎ)などを行って、邪気が入らないようにしたり、邪気を祓ったりします。その後に護摩壇に点火し、信者などの願いが込められた護摩木を焚き上げて、祈願成就を願います。なお金閣寺で行われる年間行事(仏事・イベント)は多くありません。
- 火焚祭:大護摩供奉修は一般的に火焚祭(ひたきさい)・お火焚きなどとも言われ、寺院でけでなく、神社でも行われています。火焚祭は宮中で古くから行われている新嘗祭(にいなめさい)が起源とも言われています。新嘗祭では天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に供え、自らも食して収穫に感謝しました。
【不動堂 備考】
*参考・・・金閣寺(見どころ・歴史・不動堂・・・)ホームページ