藤森神社大将軍社・藤森神社見どころ(修学旅行・観光)

藤森神社大将軍社

●藤森神社大将軍社は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●藤森神社大将軍社は室町時代後期(1467年~1572年)に室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が建立したと言われています。大将軍社は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都の際、王城守護の為に平安京の四方に祀られた南面の守護神と言われています。ちなみに北面は今宮神社境内の大将軍社、東面は東三条大将軍社、西面は大将軍八神社と言われています。大将軍社は磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀り、古来から方除の神として信仰されています。
足利義教は1394年(応永元年)7月11日に室町幕府第3代将軍・足利義満と側室・藤原慶子の子として生まれました。足利義教は室町幕府第4代将軍・足利義持の同母弟になります。1403年(応永10年)に青蓮院に入り、青蓮院門跡を継ぎはずだった兄・尊満が青蓮院を追われたこともあり、1408年(応永15年)に得度して門跡になり、義円と名乗りました。1411年(応永18年)に正式に受戒して大僧正になり、1413年(応永20年)頃に准后宣下を受け、1419年(応永26年)に153代天台座主になりました。1395年(応永元年)に同母兄で、将軍職に就いた室町幕府第4代将軍・足利義持が1423年(応永30年)に嫡子で、室町幕府第5代将軍・足利義量に将軍職を譲ったが、1425年(応永32年)に足利義量が急死し、1428年(応永35年)に足利義持も亡くなりました。足利義教は1429年(永享元年)に石清水八幡宮での籤引きで後継者・室町幕府第6代将軍に決定し、「籤引き将軍」とも言われています。義円(足利義教)は還俗して義宣と名乗り、1429年(正長2年)に義教と改名し、征夷大将軍になりました。足利義教は当初管領以下の宿老の意向に従って合議制を守っていたが、次第に将軍専制を志向するようになり、室町幕府の権威復興と将軍親政の復活を目指し、守護大名・廷臣・寺社などを問わずに峻厳な態度で臨みました。室町幕府から独立した権力を樹立しようとした第4代鎌倉公方・足利持氏を永享の乱で滅ぼし、いずれも守護大名である一色義貫・土岐持頼を暗殺し、興福寺・比叡山などの僧徒を屈服させました。足利義教は強権的だったことから守護大名などの不満・不安を招き、1441年(嘉吉元年)7月12日に守護大名・赤松満祐に謀殺されました。
磐長姫命(いわながひめのみこと)は大山津見神(おおやまつみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)の姉とされています。日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」に「石長比売」、日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」に「磐長姫」と記されています。磐長姫命は妹・木花之佐久夜毘売とともに天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)に嫁ぐが、醜かったことから父の元に送り返され、怒った父・大山津見神は邇邇芸命に寿命が短くなるだろうと告げたと言われています。また「日本書紀」に妊娠した木花之佐久夜毘売を呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとされています。
●藤森神社大将軍社は一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
藤森神社

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