伏見稲荷大社楼門・伏見稲荷大社見どころ

●伏見稲荷大社楼門は2014年(平成26年)1月27日に国の重要文化財に指定されました。
●伏見稲荷大社楼門は安土桃山時代の1589年(天正17年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が母・大政所(おおまんどころ・天瑞院(てんずいいん))の病気回復を祈願して再建しました。伏見稲荷大社楼門は檜皮葺で、左右に随身像(左大臣(阿形)・右大臣(吽形))が安置されています。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長(おだのぶなが)に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
なか(仲・天瑞院(てんずいいん))は1516年(永正13年)に美濃の鍛冶・関兼貞の娘として尾張国愛知郡御器所村(名古屋市昭和区)に生まれたとも言われています。その後織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門に嫁ぎ、日秀(とも)・豊臣秀吉を生むが、1543年(天文12年)に木下弥右衛門が亡くなると織田信長の父・織田信秀(おだのぶひで)の同朋衆・竹阿弥(筑阿弥)と再婚し、豊臣秀吉(小一郎)・朝日姫(旭)を生みました。その後竹阿弥も亡くなると豊臣秀吉のもとに引き取られ、豊臣秀吉・北政所(ねね)と一緒に暮らしました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が関白になると従一位に叙され、大政所の号を賜りました。1587年(天正15年)に聚楽第(じゅらくてい)が完成すると豊臣秀吉とともに移ったが、しばらくして大坂に戻りました。1588年(天正16年)6月に病気になったが、祈祷で回復しました。その後も病気がちだったと言われ、1592年(天正20年)8月29日に亡くなりました。
一般的に楼門は寺社の入口にある二階建て(重層)の門です。楼門は下層に屋根のないものを言い、下層に屋根があるものを二重門と言います。
随身は平安時代以後に貴人の外出の際、朝廷の命令で護衛として従った者です。随身は弓矢を持ち、太刀を帯びていました。随身は近衛府(このえふ・こんえふ)・舎人(とねり)・内舎人(うどねり)などが務めました。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
伏見稲荷大社見どころ

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