岩船寺三重塔・岩船寺見どころ(修学旅行・観光)

岩船寺三重塔

●岩船寺三重塔は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
●岩船寺三重塔は室町時代中期の1442年(嘉吉2年)に再建されました。三重塔はかつて寺伝によると平安時代前期の825年(天長2年)に智泉大徳(ちせんだいとく)が亡くなり、承和年間(834~847)に第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)が智泉大徳の遺徳を偲んで建立され、鎌倉時代前期の1221年(承久3年)の承久の乱(じょうきゅうのらん)の兵火で焼失したと言われています。
一般的に三重塔は仏教の祖・お釈迦さまの遺骨(仏舎利(ぶしゃり))を納める仏塔です。仏塔は紀元前3世紀頃から造られるようになったお釈迦さまの遺骨(仏舎利)を祀る饅頭形(半球形)のストゥーパが起源とも言われています。ストゥーパはインド(天竺(てんじく))から中国に伝えられると高層の楼閣建築形式になり、朝鮮半島から日本に伝わったと言われています。現在、飛鳥時代の684年(天武13年)~706年(慶雲3年)に建立された法起寺(ほうきじ)の三重塔が日本最古の三重塔です。なお三重塔には木造塔以外にも石造・瓦造・鉄製などもあります。
第54代・仁明天皇は810年(弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)と橘清友(たちばなのきよとも)の娘の第2皇子として生まれました。正子内親王(まさこないしんのう)は双子の妹とも言われています。823年(弘仁14年)の14歳で立太子され、833年(天長10年)に叔父で、第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)から譲位され、第54代・仁明天皇に即位しました。当初、叔父・淳和天皇の第2皇子・恒貞親王(つねさだしんのう)が皇太子になっていたが、藤原氏による他氏排斥事件とされる842年(承和9年)の承和の変(じょうわのへん)で恒貞親王を廃し、第1皇子で、第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)となる道康親王(みちやすしんのう)を皇太子としました。843年(承和10年)に文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)を謀反で一族とともに流罪に処し、845年(承和12年)に更衣と側近の藤原有貞(ふじわらのありさだ)を密通で左遷しました。850年(嘉祥3年)3月19日に病気によって第1皇子・道康親王(第55代・文徳天皇)に譲位し、2日後の同年3月21日に崩御しました。なお第54代・仁明天皇は学問を好み、唐代(中国)の政治書「群書治要(ぐんしょちよう)」などを通覧していたと言われています。また第54代・仁明天皇は多芸で知られ、弓射・鼓琴吹管を好んだと言われています。
智泉大徳は789年(延暦8年)3月15日に真言宗の宗祖である弘法大師・空海の姉の子として讃岐国(香川県)で生まれました。797年(延暦16年)に空海に連れられて奈良・大安寺の勤操に預けられ、802年(延暦21年)に空海の従者になり、804年(延暦23年)に受戒したと言われています。804年(延暦23年)7月に空海とともに従者として遣唐使船で唐(中国)に渡り、806年(大同元年)10月に帰国しました。809年(大同4年)に空海が第52代・嵯峨天皇の勅命によって入京して高雄山寺(神護寺)に入るとそれに従ったと言われ、812年(弘仁3年)に杲隣・実恵とともに高雄山寺の三綱に選ばれました。その後空海とともに和歌山・高野山に入り、東南院に住したが、825年(天長2年)3月25日に東南院で亡くなったと言われています。空海は駆け付け、先に亡くなった智泉の死を悼んだと言われています。智泉大徳は真済・真雅・実恵・道雄・円明・真如・杲隣・泰範・忠延とともに空海の十大弟子に数えられています。
●岩船寺三重塔は高さ約20.5メートルの三間(さんげん)三重塔婆(さんじゅうとうば)で、本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
岩船寺

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