銀閣寺手水鉢・銀閣寺見どころ(修学旅行)

銀閣寺手水鉢

●銀閣寺手水鉢は東求堂(国宝)と本堂(方丈)を繋ぐ廊下近くに置かれています。手水鉢には市松模様が彫られ、僧侶の袈裟(けさ)の文様に似ているから袈裟型手水鉢とも言われています。また銀閣寺型手水鉢とも言われています。なお手水鉢は茶人・千利休(せんのりきゅう)も写しを造ったとも言われています。
一般的に手水鉢は神仏の前で口をすすぎ、手を洗って身を清める為の水を貯める器でした。その後茶の湯に取り入れられ、趣を加えたものが露地に置かれるようになり、(蹲踞・蹲)とも言われています。ちなみに日本庭園にも置かれることもあります。手水鉢には自然石が用いられることが多いが、陶製・鉄製・銅製・木製などもあります。手水鉢には自然石の野趣を重視した富士型・一文字型・鎌型・舟型・誰が袖型・司馬温公型・あんこう型などがあります。また燈籠や塔の部分などを再利用した袈裟型・鉄鉢型・四方仏型・礎石型・檜垣型などもあります。また創作性がある棗型・菊型・竜安寺型・布泉型・橋杭型
銀閣寺型・枡型などもあります。
袈裟は僧侶が着る僧服のひとつです。袈裟は四角い布きれを縫い合わせ、大きな長方形の一枚の生地になるように仕立てられています。日本では法衣の上に袈裟を着けます。袈裟は縦に縫い合わせた布の数(条(じょう))により、五条袈裟・七条袈裟・九条袈裟などと言われ、五条袈裟は作業着、七条袈裟は普段着、九条袈裟以上は正装用に使われています。
千利休は室町時代後期の1522年(大永2年)に田中与兵衛(たなかよひょうえ)と月岑妙珎(げっしん)の子として和泉国堺に生まれました。17歳から茶の湯を習い、先ず茶匠・北向道陳(きたむきどうちん)に師事し、その後茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事しました。1544年(天文13年)に松屋久政らを招いて茶会を開き、その後堺の実質的支配する三好氏の御用商人になりました。1569年(永禄12年)にいずれも千利休とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)とともに織田信長の茶頭(さどう)になりました。1582年(天正10年)の本能寺の変後に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えて茶頭になりました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が禁中茶会を催した際、号・利休居士を与えられ、天下一の茶人(茶湯者)としての地位を確立し、1587年(天正15年)に豊臣秀吉による北野大茶湯も主管しました。ちなみに千利休は豊臣秀吉の政事にも関わり、キリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)が大坂城を訪れた際、豊臣秀長(とよとみひでつぐ)から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたと言われています。しかし1591年(天正19年)に突然豊臣秀吉の逆鱗に触れ、1591年(天正19年)4月21日に切腹を命じられ、その首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ)されました。なお千利休は草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、簡素・清浄なわび茶(草庵の茶)を完成させました。
銀閣寺見どころ

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