銀閣寺銀閣・銀閣寺見どころ(修学旅行)

銀閣寺銀閣

●銀閣寺銀閣は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●銀閣寺銀閣は1489年(長享3年)に室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が金閣寺の金閣(舎利殿)を模して造営し、江戸時代に数度改修されたと言われています。足利義政は自らの宗教観を託し、一層を心空殿(しんくうでん)、二層を潮音閣(ちょうおんかく)と命名しました。
足利義政は室町時代の1436年(永享8年)1月20日に室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と日野重子(ひのしげこ)の五男として生まれました。同母兄である室町幕府第7代将軍・足利義勝(あしかがよしかつ)は次期将軍として期待され、政所執事・伊勢貞国(いせ さだくに)の屋敷で育てられたが、義政は母方の公家・烏丸資任(からすまるすけとう)の屋敷で育てられ、出家して僧侶となる予定だったと言われています。1441年(嘉吉元年)に父・義教が嘉吉の乱(かきつのらん)で赤松満祐(あかまつみつすけ)によって殺害され、兄・義勝が室町幕府第7代将軍になったが、1443年(嘉吉3年)に兄・義勝も早逝すると8歳で後継者に選出され、「室町殿」と言われるようになりました。1446年(文安3年)に第102代・後花園天皇から「義成」の名を賜り、1449年(文安6年)に元服して将軍宣下を受け、室町幕府第8代将軍になりました。しかし室町幕府管領である畠山持国(はたけやまもちくに)・細川勝元(ほそかわかつもと)らの宿老中心の政治を嫌って遊興にふけるようになりました。義政には当初嗣子なく、管領・細川勝元とともに1464年(寛正5年)に弟で、天台宗(てんだいしゅう)浄土院(じょうどいん)の門跡・義尋(ぎじん)を還俗させ、足利義視(あしかがよしみ)として将軍職に就けようとしました。しかし1465年(寛正6年)に義政の正室・日野富子(ひのとみこ)が室町幕府第9代将軍となる足利義尚(あしかがよしひさ)を生んだことから日野氏は山名宗全とともに義尚を将軍職に就けようとしました。足利将軍家と管領・畠山氏(はたけやまし)と斯波氏(しばし)の継嗣問題に端を発し、東軍総大将・細川勝元方と西軍総大将・山名宗全(やまなそうぜん)方に分れ、約11年間にわたって京都を中心として争われた応仁の乱(応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん))が起こります。1473年(文明5年)に細川勝元・山名宗全に亡くなったことから子・義尚に将軍職を譲って隠居しました。その後東山に慈照寺(銀閣寺)の前身である東山山荘(東山殿)を造営して「東山殿」と言われ、応仁の乱の戦乱をよそに茶の湯・絵画など風雅な生活を送り、東山文化が築きました。義政は庭師・善阿弥(ぜんあみ)、狩野派の絵師・狩野正信(かのうまさのぶ)、土佐派の絵師・土佐光信(とさみつのぶ)、画僧・宗湛(そうたん)、能楽者・音阿弥(おんあみ)、臨済宗の禅僧・横川景三(おうせんけいさん)らを召抱えました。なお足利義政は1490年(延徳2年)1月27日に亡くなりました。
銀閣寺見どころ

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