銀閣寺八幡社・銀閣寺見どころ

銀閣寺八幡社

●銀閣寺八幡社は江戸時代中期の1682年(天和2年)から1686年(貞享3年)に記された地誌「雍州府志(ようしゅうふし)」に「八幡をもつて鎮守とす」と記され、銀閣寺の鎮守社とも言われています。銀閣寺八幡社は足利氏(あしかがし)など清和源氏(せいわげんじ)の守護神である八幡神(やはたのかみ・はちまんしん)を祀っています。
八幡神は誉田別命(ほんだわけのみこと)とも言われ、第15代・応神天皇と同一とされています。奈良時代以降の神仏習合(しんぶつしゅうごう)により、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言われました。八幡神は清和源氏・桓武平氏(かんむへいし)などの武家から武運の神(武神)として崇敬されました。また八幡神は第15代・応神天皇と同一とされ、皇祖神としても位置付けられました。八幡神は571年(欽明天皇32年)に初めて大分・宇佐の地に示顕したとされ、大分県宇佐市に宇佐神宮(宇佐八幡宮)が建立され、八幡神社の総本社になっています。ちなみに宇佐神宮は奈良時代に弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が天皇の位を狙った宇佐八幡宮神託事件で知られています。なお八幡神は妻である比売神(ひめがみ)・母である神功皇后とともに八幡三神とも言われています。
第15代・応神天皇は第14代・仲哀天皇と神功皇后(じんぐうこうごう)の第4皇子・誉田別尊(ほんだわけのみこと)として生まれました。200年(仲哀天皇9年)の三韓征伐(さんかんせいばつ)の帰途に神功皇后が生んだとされています。胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とされ、異母兄達(香坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ))が叛乱を起こしたが、神功皇后が鎮圧して排除しました。203年(神功皇后摂政3年)に立太子し、270年(応神天皇元年)に天皇に即位しました。在位中に大和朝廷の勢力が飛躍的に発展し、巨大な陵墓が天皇の権力の強大さを示していると言われています。また在位中に朝鮮半島から阿直岐 (あちき) ・弓月君 (ゆづきのきみ) ・王仁 (わに) ・阿知使主 (あちのおみ) らが渡来し、養蚕・織物・灌漑・治水技術などをもたらしました。第15代・応神天皇は310年(応神天皇41年)に111歳で崩御したとも言われています。
●銀閣寺八幡社は一間社流見世棚造(みせだなづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
見世棚造は土台の上に組まれ、正面に階段のない間口が一間ぐらいの小さな社殿です。見世棚造は神社の末社などに使われます。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
銀閣寺見どころ

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