銀閣寺方丈(本堂)・銀閣寺見どころ(修学旅行)

●銀閣寺方丈(本堂)は江戸時代前期の寛永年間(1624年~1644年)に再建されたと言われています。銀閣寺方丈は本尊・釈迦牟尼仏(釈迦如来)を安置しています。
一般的に方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院の住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。方丈は大乗仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」にインドの在家仏徒・維摩居士(ゆいまこじ)が神通力で1丈四方の部屋に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)など8,000人の菩薩や仏弟子である500人の声聞(しょうもん)を招き入れたという故事に由来しています。そこから方丈に全宇宙が内在し、住職の居室を方丈というようになりました。方丈は堂頭(どうちょう)・堂上(どうじょう)・正堂(しょうどう)・函丈(かんじょう)とも言われています。なお「維摩経」は仏教伝来とともに伝わったとも言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)の注釈書「維摩経義疏(三経義疏(さんぎょうぎしょ))」が残されています。
一般的に本堂は本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
お釈迦さま(釈迦牟尼 ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
●銀閣寺方丈には俳人・画家である与謝蕪村(よさぶそん)と文人画家・書家である池大雅(いけのたいが)が描いた襖絵があります。
与謝蕪村は江戸時代中期の1716年(享保元年)に摂津国東成郡毛馬村(大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれました。20歳の頃に江戸に下り、早野巴人(はやのはじん・夜半亭宋阿(やはんていそうあ))に師事して俳諧を学びました。また絵は各派から画法を修得しました。1742年(寛保2年)27歳の時に師が亡くなると松尾芭蕉(まつおばしょう)の行脚生活に憧れ、東北地方などを周遊しました。1744年(延享元年)に宰鳥から蕪村に改号しました。1751年(宝暦1元年)36歳の時に京都に上京し、画業を主とし活動しました。1770年(明和7年)に早野巴人の後継者に押され、夜半亭2世を継ぎました。与謝蕪村は写実性・浪漫性・叙情性に富む俳風で、中興俳諧の中心的役割を果たした。絵は池大雅とともに日本南画を大成させました。
池大雅は江戸時代中期の1723年(享保8年)に京都銀座役人の下役の子としてに生まれました。6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学びました。15歳の頃から自作の画扇を売って生計を立て、文人画の先駆とされる柳沢淇園(やなぎさわきえん)の影響を受けて文人画を独学しました。絵は中国の画譜画伝・舶載画、室町時代の水墨画、そして俵屋宗達(たわらやそうたつ)・尾形光琳(おがたこうりん)の画法、更に西洋画の影響を受けたと言われています。26歳の時に江戸から東北地方に周遊しました。29歳の時に白隠慧鶴(はくいんえかく)に参禅しました。池大雅は日本画の伝統と西洋画の表現法を取り入れ、のびのびと大らかな独自の画風を誕生させました。池大雅は与謝蕪村とともに日本南画を大成させました。
銀閣寺見どころ

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