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銀閣寺書院・銀閣寺見所(修学旅行・観光)
銀閣寺書院
●銀閣寺書院は1993年(平成5年)11月に約10年の歳月を掛けて落慶しました。書院には旧庫裏(くり)から茶室・集芳軒(しゅうほうけん)が移築されました。集芳軒は江戸時代後期の1854年(嘉永7年)頃に建てられたとも言われています。集芳軒は三千家に数えられる武者小路千家(むしゃこうじせんけ)の茶室・半宝庵(はんぽうあん)の写しとも言われています。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
一般的に庫裏(庫裡・庫院)は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所です。庫裏は禅宗寺院で、仏像を安置して礼拝する仏殿・三解脱門(さんげだつもん)である三門(山門)・仏道修行に励む僧堂・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・浴場である浴室・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられました。庫裏は大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多くなっています。
●銀閣寺書院には大広間に日本最後の文人と謳われる文人画家・儒学者である富岡鉄斎(とみおかてっさい)の襖絵が飾られています。
富岡鉄斎は江戸時代後期の1837年(天保7年)1月25日に京都三条室町の法衣商十一屋伝兵衛・富岡維叙(とみおかこれのぶ)の次男として生まれました。耳が少し不自由だったが、幼少から家学である石門心学(せきもんしんがく)や国学・漢学・詩学などを学びました。また尼僧・歌人であった大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の学僕になり、多大な人格的影響を受けました。その後南北合派・南画などを学び、1862年(文久2年)に画業で生計を立て始めました。幕末に勤王の志士らと交流して国事に奔走し、明治維新後に大和(奈良)・石上神宮(いそのかみじんぐう)や和泉(大阪)・大鳥大社(おおとりたいしゃ)などの宮司になり、1881年(明治14年)に京都に帰って定住しました。1896年(明治29年)に田能村直入(たのむらちょくにゅう)・谷口藹山(たにぐちあいざん)らと日本南画協会を発足し、自由な作画活動を展開し、その学識と画技によって文人画壇の重鎮になりました。1893年(明治26年)に京都市美術学校で教員に就任し、1904年(明治37年)まで修身を教えました。なお富岡鉄斎は1924年(大正13年)12月31日に亡くなりました。
【銀閣寺 備考】
★銀閣寺の見どころを紹介しています。
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