銀閣寺相君泉・洗月泉・銀閣寺見所(修学旅行・観光)

銀閣寺相君泉・洗月泉

●銀閣寺相君泉・洗月泉は昭和に田中泰阿弥(たなかたいあみ)らが発見・発掘した言われています。1929年(昭和4年)に洗月泉の滝の石組、1931年(昭和6年)に相君泉の石組が発見・発掘されました。
田中泰阿弥は1898年(明治31年)に新潟県柏崎市に田中泰治として生まれました。その後作庭家・庭師になり、孤高の「庭匠」とも言われました。田中泰阿弥は銀閣寺茶席の露地・相国寺(しょうこくじ)の庭園・金地院(こんちいん)の庭園・智積院(ちしゃくいん)の庭園・天龍寺(てんりゅうじ)の庭園・等持院(とうじいん)の庭園などの作庭・補修・補修計画策定などに携わりました。
●銀閣寺相君泉はかつて室町時代に室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が茶の湯に使用したと言われ、お茶の井とも言われています。ちなみに銀閣寺相君泉は現在も茶会で使用されています。
足利義政は室町時代の1436年(永享8年)1月20日に室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と日野重子(ひのしげこ)の五男として生まれました。1441年(嘉吉元年)に父・義教が嘉吉の乱(かきつのらん)で赤松満祐(あかまつみつすけ)によって殺害され、同母兄・足利義勝(あしかがよしかつ)が室町幕府第7代将軍になったが、1443年(嘉吉3年)に兄・義勝も早逝すると8歳で後継者に選出され、「室町殿」と言われるようになりました。1446年(文安3年)に第102代・後花園天皇から「義成」の名を賜り、1449年(文安6年)に元服して将軍宣下を受け、室町幕府第8代将軍になりました。しかし室町幕府管領である畠山持国(はたけやまもちくに)・細川勝元(ほそかわかつもと)らの宿老中心の政治を嫌って遊興にふけるようになりました。その後足利将軍家と管領・畠山氏(はたけやまし)と斯波氏(しばし)の継嗣問題に端を発し、東軍総大将・細川勝元方と西軍総大将・山名宗全(やまなそうぜん)方に分れて争われた応仁の乱(応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん))が起こります。1473年(文明5年)に細川勝元・山名宗全に亡くなったことから子・足利義尚(あしかがよしひさ)に将軍職を譲って隠居しました。その後東山に慈照寺(銀閣寺)の前身である東山山荘(東山殿)を造営して「東山殿」と言われ、応仁の乱の戦乱をよそに茶の湯・絵画など風雅な生活を送り、東山文化が築きました。なお足利義政は1490年(延徳2年)1月27日に亡くなりました。
●銀閣寺洗月泉は山から湧き水が湧き出し、天候などにもよるが、三筋流れていると言われています。銀閣寺洗月泉は泉に月が映った時に泉のさざ波が月を洗っているように見えることから名付けられました。銀閣寺洗月泉は黒い石の上に硬貨が乗るとよいことがあるとも言われています。
【銀閣寺 備考】
★銀閣寺の見どころを紹介しています。
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