銀閣寺漱蘚亭跡・銀閣寺見どころ

銀閣寺漱蘚亭跡

●銀閣寺漱蘚亭跡はかつて室町時代に室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が絵師・相阿弥(そうあみ)に苔寺(西芳寺(さいほうじ))の庭園を模して作庭させた庭園跡とも言われています。庭園は枯山水式庭園の漱蘚亭跡と錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園の上下二段の庭園だったと言われています。漱蘚亭跡は江戸時代に山崩れで埋没したとも言われています。漱蘚亭跡には崩れかかった石組・泉・水流の跡が残されています。
足利義政は室町時代の1436年(永享8年)1月20日に室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と日野重子(ひのしげこ)の五男として生まれました。1441年(嘉吉元年)に父・義教が嘉吉の乱(かきつのらん)で赤松満祐(あかまつみつすけ)によって殺害され、同母兄・足利義勝(あしかがよしかつ)が室町幕府第7代将軍になったが、1443年(嘉吉3年)に兄・義勝も早逝すると8歳で後継者に選出され、「室町殿」と言われるようになりました。1446年(文安3年)に第102代・後花園天皇から「義成」の名を賜り、1449年(文安6年)に元服して将軍宣下を受け、室町幕府第8代将軍になりました。しかし室町幕府管領である畠山持国(はたけやまもちくに)・細川勝元(ほそかわかつもと)らの宿老中心の政治を嫌って遊興にふけるようになりました。その後足利将軍家と管領・畠山氏(はたけやまし)と斯波氏(しばし)の継嗣問題に端を発し、東軍総大将・細川勝元方と西軍総大将・山名宗全(やまなそうぜん)方に分れて争われた応仁の乱(応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん))が起こります。1473年(文明5年)に細川勝元・山名宗全に亡くなったことから子・足利義尚(あしかがよしひさ)に将軍職を譲って隠居しました。その後東山に慈照寺(銀閣寺)の前身である東山山荘(東山殿)を造営して「東山殿」と言われ、応仁の乱の戦乱をよそに茶の湯・絵画など風雅な生活を送り、東山文化が築きました。なお足利義政は1490年(延徳2年)1月27日に亡くなりました。
相阿弥は生年不詳で、室町時代の絵師・連歌師・表具師・鑑定家である芸阿弥(げいあみ)の子、室町時代の絵師・茶人・連歌師・表具師・鑑定家である能阿弥(のうあみ)の孫として生まれました。相阿弥は室町時代の絵師・連歌師・鑑定家で、祖父・父に引き続いて足利将軍家に芸能に優れた同朋衆(どうぼうしゅう)として仕え、唐物(中国)の目利き・管理を行った唐物奉行(からものぶぎょう)も務めました。相阿弥は祖父・父などに学び、祖父・能阿弥によって開祖された阿弥派(あみは)の絵画を大成させたり、書院飾りを完成させたりしました。また書画の鑑定・造園・香・連歌・茶道など多方面でも活躍しました。阿弥派の画風は相阿弥・芸阿弥・能阿弥から三阿弥と称されました。相阿弥は青蓮院の築山泉水庭・銀閣寺の庭園・長楽寺の庭園・願泉寺の庭園を作庭し、大徳寺大仙院の紙本墨画瀟湘八景図6幅(重要文化財)・大徳寺大仙院の紙本墨画瀟湘八景図16幅(重要文化財)・出光美術館所蔵の廬山観瀑図・メトロポリタン美術館所蔵の四季山水図屏風(紙本墨画六曲一双)・クリーブランド美術館所蔵の山水図・サンフランシスコアジア美術館所蔵の観瀑図を描きました。また秘伝書「君台観左右帳記」・「東山殿御飾記」も著記しました。
苔寺(西芳寺)は飛鳥時代に第31代・用明天皇の皇子・聖徳太子の別荘があった場所で、聖徳太子作の阿弥陀如来像が安置されていたとも言われています。奈良時代の天平年間(729年~749年)に僧・行基菩薩が第45代・聖武天皇の詔により、畿内四十九院に数えられるの法相宗の寺院として創建し、行基作の弥陀三尊を安置し、西方寺(にしかたでら)と称したのが起源とも言われています。鎌倉時代初期に浄土宗の開祖・法然上人が浄土宗に改めたが、その後兵火によって荒廃しました。1339年(暦応2年)に臨済宗の禅僧である夢窓国師・夢窓疎石が松尾大社宮司・藤原親秀の招請によって再興し、臨済宗(禅宗)に改めました。
銀閣寺見どころ

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