御香宮神社表門・御香宮神社見どころ(修学旅行・観光)

御香宮神社表門

●御香宮神社表門は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●御香宮神社表門は江戸時代前期の1622年(元和8年)に建立されました。表門は伏見城の大手門として建てられ、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の十一男で、水戸黄門(みとこうもん)とも言われる徳川光圀(とくがわみつくに)の父・徳川頼房(とくがわよりふさ)が賜って寄進したと言われています。表門は雄大な木割・雄渾な蟇股など豪壮な構えは伏見城の大手門の貫禄を示し、正面の蟇股には中国二十四孝(楊香(ようこう)・敦巨(かっきょ)・唐夫人、孟宗(もうそう)など)が彫られています。
徳川頼房は1603年(慶長8年)9月15日に江戸幕府初代将軍・徳川家康と養珠院(お万の方)の十一男として伏見城で生まれました。1606年(慶長11年)に常陸下妻城10万石、1609年(慶長14年)に兄・徳川頼宣(徳川頼将)の駿河転封によって常陸水戸城25万石を拝領したが、幼少だったことから駿府の父・徳川家康もとで育てられました。1611年(慶長16年)に元服し、1614年(慶長19年)の大坂夏の陣では駿府城を守備しました。1619年(元和5年)に初めて常陸水戸藩に就藩したが、その後江戸で過ごしました。1626年(寛永3年)に後水尾天皇の二条城行幸の際に江戸幕府3代将軍・徳川家光とともに上洛し、従三位・権中納言に任じられ、1627年(寛永4年)に正三位に昇叙しました。1625年(寛永2年)から1630年(寛永7年)にほぼ毎年常陸水戸藩に就藩し、水戸城の修復・城下町の整備・法令の制定などを行なったが、その後はほとんど江戸で過ごしました。徳川頼房は1661年(寛文元年)の常陸水戸藩就藩中に病になり、1661年(寛文元年)8月23日に水戸城で亡くなりました。
伏見城は1592年(文禄元年)に豊臣秀次に関白職を譲った豊臣秀吉が観月の名所であった伏見指月に隠居屋敷を造営したのが起源です。1593年(文禄2年)に庶子・豊臣秀頼が誕生し、大坂城を秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震で建物が倒壊し、北側約500メートルにある木幡山に場所を移して築城を再開しました。1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦とも言われる伏見城の戦いで多くの建物が炎上したと言われています。1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●御香宮神社表門は三間(さんげん)薬医門(やくいもん)で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
薬医門は2本の本柱(鏡柱)の後方に2本の控え柱を立て、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)を架け、切妻屋根をのせた門です。薬医門は元々公家や武家の正門などに用いられたが、扉をなくして医家に用いられたことから名称の由来になりました。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
御香宮神社

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