御霊神社本殿・御霊神社見所(修学旅行・観光)

御霊神社本殿

●御霊神社本殿は1921年(大正10年)4月30日に国の重要文化財に指定されました。
●御霊神社本殿は室町時代前期(1333年~1392年)に建立されました。本殿はかつて奈良・氷室神社(ひむろじんじゃ)から古社殿を移して建立されたとも言われています。なお御霊神社は崇道天皇(すどうてんのう・早良親王(さわらしんのう))を主祭神に井上内親王(いのうえないしんのう)・他戸親王(おさべしんのう)・藤原良子(ふじわらのよしこ)・文屋宮田麻呂(ぶにゃみやたまろ)・橘逸勢(たちばなのはやなり)・吉備真備(きびのまきひ)・火雷神(ほのいかづちかみ・菅原道真(すがわらみちざね))を祀っています。
早良親王は奈良時代中期の750年(天平勝宝2年)頃に第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)と高野新笠(たかののにいがさ)の第2皇子として生まれました。同母の兄弟には兄で、第50代・桓武天皇(かんむてんのう)となる山部親王(やまのべしんのう)・姉の能登内親王(のとないしんのう)がいます。761年(天平宝字5年)に出家して東大寺(とうだいじ)羂索院(けんじゃくいん)・大安寺(だいあんじ)東院に住み、親王禅師(しんのうぜんじ)と言われ、東大寺開山・良弁(ろうべん)の後継者と言われていました。781年(天応元年)に同母兄・山部親王が第50代・桓武天皇(かんむてんのう)に即位すると父・光仁天皇の勧めで還俗して立太子(皇太弟)されました。ただ桓武天皇には774年(宝亀5年)に第1皇子で、第51代・平城天皇(へいぜいてんのう)となる安殿親王(あてしんのう)が生まれていました。785年(延暦4年)9月に長岡京(ながおかきょう)で桓武天皇の寵臣で、造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されると犯人に連座し、皇太子を廃され、長岡京市・乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されました。早良親王は無実を訴える為に十余日絶食し、785年( 延暦4年)11月8日に淡路国に配流される途中の河内国高瀬橋付近(大阪府守口市)で憤死し、遺骸は淡路国まで運ばれて葬られました。その後皇太子・安殿親王や桓武天皇の皇后など皇族や貴族が病気になったり、疫病の流行や洪水などの災害が起こったりするなどの悪疫(あくえき)が続き、早良親王の祟りと恐れられ、度々鎮魂の儀式が行われました。800年(延暦19年)に桓武天皇が早良親王の怨霊を慰める為に崇道天皇(すどうてんのう)の追号を贈り、805年(延暦24年)に早良親王の遺骸を淡路国から大和国に移葬しました。
氷室神社(ひむろじんじゃ)は社伝によると奈良時代初期の710年(和銅3年)に第43代・元明天皇(げんめいてんのう)の勅命により、吉城川(よしきがわ)上流の月日磐(つきひいわ)に氷神を祀ったのが起源とも言われています。月日磐では厳冬時期に氷を作って氷室に貯蔵し、翌年の春から夏に献氷されたそうです。794年(延暦13年)の平安京(へいあんきょう)遷都後に廃止され、平安時代前期の860年(貞観2年)に現在の場所に移され、1217年(建保5年)に社殿が建立されました。なお氷室神社は闘鶏稲置大山主命 (つげのいなぎおおやまぬしのみこと)・大鷦鷯命 (おおささぎのみこと)・額田大仲彦命(ぬかたのおおなかつひこのみこと)を祀っています。
●御霊神社本殿は三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
御霊神社

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