浮島十三重塔・橋寺放生院見どころ(修学旅行・観光)

浮島十三重塔

●浮島十三重塔は1953年(昭和28年)3月31日に国の重要文化財に指定されました。
●浮島十三重塔は鎌倉時代後期の1286年(弘安9年)に奈良・西大寺(さいだいじ)を再興した真言律宗(しんごんりっしゅう)の祖である興正菩薩(こうしょうぼさつ)・叡尊(えいそん)が建立したと言われています。興正菩薩・叡尊は1284年(弘安7年)から宇治川に架かる宇治橋の修造に着手し、1286年(弘安9年)の宇治橋完成に合わせ、宇治橋南側に中島として舟を模した人工島を築き、放生会(ほうじょうえ)を修する祈祷道場にしました。同年11月19日に宇治川の魚霊供養と宇治橋の安全の祈念し、大塔婆(浮島十三重塔)を建立したと言われています。その後頻発する宇治川の氾濫に耐えていたが、江戸時代中期の1756年(宝暦6年)の大氾濫で倒伏して川底の泥砂に深く埋もれました。1905年(明治38年)に復興が発願され、1907年(明治40年)の発掘作業で九重目の笠石(かさいし)と相輪(そうりん)以外は発見され、翌1908年(明治41年)8月21日に九重目の笠石・相輪が新たに制作されて再興されました。その後元々の九重目の笠石・相輪が発見され、宇治川右岸(北東岸)に建立されている興聖寺(こうしょうじ)の庭園に移されました。ちなみに五重目の笠石が石川五右衛門(いしかわごえもん)に盗まれ、藤森神社(ふじのもりじんじゃ)の手水鉢(ちょうずばち)の台石になったという伝承も残されています。なお十三重塔は塔高約15.2メートルで、近世以前の石塔として日本最大です。
叡尊は1201年(建仁元年)に興福寺の学侶・慶玄の子として生まれたとも言われています。1207年(承元元年)に母が亡くなり、1217年(建保5年)に醍醐寺の阿闍梨・叡賢に師事して出家しました。1224年(元仁元年)に高野山に入って真言密教を学び、1235年(嘉禎元年)に戒律の復興を志し、真言律宗総本山である西大寺宝塔院の持斎僧になり、「四分律行事鈔」を学びました。1236年(嘉禎2年)に東大寺で自誓受戒し、海龍王寺を経て、西大寺に戻って戒律の普及に勤めました。1240年(仁治元年)に西大寺に入寺し、弟子となる忍性の文殊菩薩信仰に影響を受け、その後額安寺西宿で最初の文殊供養を催し、非人を文殊菩薩の化身に見立て非人に斎戒を授けました。ちなみに1269年(文永6年)に般若寺で文殊菩薩像の落慶供養を催した際、非人2千人を集めた最大の非人供養が行われました。1262年(弘長2年)に鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の招きで鎌倉に下向し、北条時頼・北条実時に拝謁して授戒しました。また蒙古襲来(元寇)の際には伊勢神宮や石清水八幡宮に詣でて異国降伏の祈祷も行いました。なお叡尊は1290年(正応3年)9月29日に西大寺で亡くなりました。
藤森神社は社伝によると203年(神功皇后摂政3年)に第14代・仲哀天皇の皇后だった神功皇后が三韓征伐から凱旋した際、山城国深草の里の藤森に纛旗を立て、兵具を納めて塚を造ったのが起源とも言われています。平安時代初期の794年(延暦13年)に第50代・桓武天皇から弓兵政所の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われたとも言われています。その後816年(弘仁7年)に伏見稲荷大社の社殿が標高約233メートルの稲荷山(いなりやま)から山麓の現在の場所に建立されたことから現在の場所に移ったとも言われています。
石川五右衛門は1558年(弘治4年)に真田八郎として遠州(静岡)浜松で生まれたとも言われています。(諸説あり)河内国(大阪)石川郡山内古底の医家に因んで、石川五右衛門に名前を改めたとも言われています。盗賊の首長として京都を荒らし周り、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、豊臣政権の五奉行の一人である前田玄以(まえだげんい)に捕らえられ、1594年( 文禄3年)10月8日に京都三条河原で、その子・一郎とともに煎り殺されました。石川五右衛門は37歳と言われています。石川五右衛門は歌舞伎・浄瑠璃などの題材になり、歌舞伎「楼門五三桐(さんもん ごさんのきり)」では「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両・・・」と見得を切りました。また石川五右衛門は五右衛門風呂の由来にもなっています。なお石川五右衛門は処刑前に市中を引き回され、寺町通四条下ルにあった大雲院(だいうんいん)前で住職に引導を渡されたことから大雲院が墓所となっています。
橋寺放生院

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