平安神宮本殿・内拝殿・平安神宮見どころ

平安神宮本殿・内拝殿

●平安神宮本殿・内拝殿は1976年(昭和51年)1月6日に平安神宮放火事件によって焼失し、1979年(昭和54年)に再建されました。本殿は白木造で、銅板葺です。
一般的に本殿は祭神(神霊・神体)を祀る建物です。本殿は神殿(しんでん)とも言われ、古くは正殿(せいでん・しょうでん)・宝殿(ほうでん)とも言われていました。なお本殿が内陣と外陣に分かれている場合、内陣に祭神が祀られ、外陣は献饌(けんせん)・奉幣(ほうべい・ほうへい)の場として使われます。
一般的に拝殿は神社で祭祀・拝礼を行なう為の社殿です。拝殿は本殿前に建立されるが、拝殿がない神社(春日大社・伊勢神宮など)や拝殿が2つある神社(伏見稲荷大社・明治神宮など)などがあります。拝殿が2つある場合、手前の拝殿が外拝殿(げはいでん)、奥の拝殿が内拝殿(ないはいでん)と言われます。また拝殿の中央が土間で、通り抜けられる場合には割拝殿(わりはいでん)と言われます。ちなみに本殿と拝殿の間に幣帛(へいはく)を奉る幣殿(へいでん)が建立される場合もあります。拝殿は一般に本殿よりも大きく建立され、鈴(鈴の緒(すずのお))や鰐口(わにぐち)が設置される場合もあります。拝殿は舞殿・神楽殿などを兼ねる場合もあります。なお拝殿では神職が祭祀を行う際に神職などが着座します。拝殿では参拝者が拝礼を行う際に手前で拍手を打ちます。
●平安神宮本殿には東本殿に第50代・桓武天皇、西本殿に第121代・孝明天皇を祀っています。
第50代・桓武天皇は奈良時代の737年(天平9年)に第49代・光仁天皇(白壁王)と高野新笠(たかののにいがさ)の第1皇子として生まれました。母・高野新笠が百済系渡来人氏族・和氏(やまとうじ)の出身であったことから官僚として大学頭(だいがくのかみ)・侍従(じじゅう)に任じられ、770年(宝亀元年)に父・白壁王が第49代・光仁天皇に即位すると親王宣下とともに四品(しほん)が授けられました。772年(宝亀3年)に第49代・光仁天皇の皇后・井上内親王が光仁天皇を呪詛(じゅそ)したとして皇后を廃され、その後異母弟である皇太子・他戸親王も皇太子を廃されると翌773年(宝亀4年)に皇太子になりました。781年(天応元年)に父である第49代・光仁天皇から譲位され、45歳で第50代・桓武天皇に即位しました。奈良時代の仏教政治の弊害を除く為に僧侶の不法を取り締まり、784年(延暦3年)に長岡京の遷都、794年(延暦13年)に平安京の遷都を行って律令国家としての強化・拡大を図りました。天台宗の宗祖である伝教大師・最澄、真言宗の宗祖である弘法大師・空海を重用して平安仏教の確立にも尽力しました。また奥羽の蝦夷平定の為に坂上田村麻呂を将軍として遠征させ、地方行政の整備なども行いました。なお第50代・桓武天皇は806年(延暦25年)4月9日に崩御しました。
第121代・孝明天皇は江戸時代後期の1831年(天保2年)7月22日に第120代・仁孝天皇と正親町雅子(おおぎまちなおこ)の第4皇子として生まれました。1835年(天保6年)に親王宣下を受け、1840年4(天保11年)に皇太子になりました。1846年(弘化3年)に父である第120代・仁孝天皇が崩御すると第121代・孝明天皇に即位しました。1854年(嘉永7年)の日米和親条約(神奈川条約)は許したが、1858年(安政5年)の日米修好通商条約では勅許を拒否しました。攘夷(じょうい)鎖国を望み、江戸幕府が独断で日米修好通商条約を調印した際には一時譲位を表明しました。しかし過激な討幕運動に反対して公武合体策を執り、1860年(万延元)に皇妹・和宮(かずのみや)を江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁がせました。尊攘過激派の堂上独占に批判的で、三条実美らの七卿が都落ちになり、第121代・孝明天皇の崩御後に尊攘派の公家が復活しました。第121代・孝明天皇は1867年(慶応2年)1月30日に天然痘(てんねんとう)で崩御しました。
平安神宮見どころ

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