豊臣秀頼(とよとみひでより)・豊公参朝列と時代祭
豊臣秀頼・豊公参朝列と時代祭
時代祭の時代行列では明治維新時代、江戸時代、安土桃山時代、室町時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代、延暦時代、神幸列の順に京都御所・建礼門前から平安神宮まで巡行します。豊公参朝列は1596年(慶長元年)5月に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼が朝廷に初参内した時と1597年(慶長2年)9月に元服した時の参内の様子を再現しています。
【時代祭日程2026(要確認)】
時代祭2026ではハイライトである時代行列進発が2026年(令和8年)10月22日(木曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌23日に順延)時代行列進発では山国隊を先頭に約2,000人・約2キロの時代行列が京都御所・建礼門前から平安神宮まで巡行します。
時代祭2026日程(時代行列・神幸祭・行在所祭・・・)
【時代祭 歴史・簡単概要】
時代祭は1895年(明治28年)に平安神宮の創建と平安遷都1,100年祭を盛大に奉祝する行事が起源です。時代祭は平安神宮の祭神である桓武天皇と孝明天皇の神霊に市街地を巡行していただき、市民の暮らしぶりを親しくご覧いただき、市民が平安を祈る祭礼とされています。時代行列は東京遷都前の京都の歴史と文化を一目で理解できるようにと提案されたのが始まりです。時代行列は広く市民によって組織された「平安講社」によって運営され、現在は8つの時代を20列・約2,000人規模になっています。時代行列は神幸列(神饌講社列・前列・神行列など)にお供する祭列とされています。
【豊臣秀頼(とよとみひでより)・豊公参朝列】
時代祭の時代行列では明治維新時代(維新勤王隊列・維新志士列)、江戸時代(徳川城使洛列・江戸時代婦人列)、安土桃山時代(豊公参朝列・織田公上洛列)、室町時代(室町幕府執政列・室町洛中風俗列)、吉野時代(楠公上洛列・中世婦人列)、鎌倉時代(城南流鏑馬列)、藤原時代(藤原公卿参朝列・平安時代婦人列)、延暦時代(延暦武官行進列・延暦文官参朝列)、神幸列(神饌講社列・前列・神行列・白川女献花列・弓箭組列)の順に京都御所・建礼門前(京都御苑)から平安神宮まで巡行します。豊公参朝列(ほうこうさんちょうれつ)は1596年(慶長元年)5月に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼が朝廷に初参内した時と1597年(慶長2年)9月に元服した時の参内の様子を再現しています。檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)の前後は五奉行である前田玄以(まえだげんい)・石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ますだながもり)・長束正家(ながつかまさいえ)を再現しています。「一日晴れ」ということから華麗な衣冠装束(いかんしょうぞく)に武家風の太刀(たち)を差しています。
1593年(文禄2年)8月3日に豊臣秀頼は大坂城二の丸で誕生しました。ちなみに豊臣秀吉は1591年(天正19年)に姉・瑞竜院日秀(ずいりゅういんにっしゅう・とも)の長男で、甥で養嗣子だった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職と政庁である聚楽第(じゅらくだい)を譲り、秀次が秀吉の後継者になっていました。そこで秀吉は子・秀頼と甥・秀次の娘を婚約させ、秀次から秀頼に権力を継承させようとしました。ただ1595年(文禄4年)7月に秀吉は秀次から関白職を奪って自刃させ、その子女や妻妾らも殺害し、秀頼を後継者に確定させました。諸大名に対して、秀頼に忠誠を誓約する起請文(誓書)に血判署名させました。翌1596年(慶長元年)1月にも再度起請文(誓書)を提出させました。1596年(文禄5年)5月13日に秀頼は秀吉とともに初めて宮中に参内し、天盃(てんぱい)を賜り、従五位下に叙されました。秀頼は豊臣朝臣藤吉郎秀頼と称しました。その後秀吉は五大老・五奉行などの職制を整備し、秀頼を補佐する体制を整えました。1597年(慶長2年)9月に秀頼は元服して宮中に参内し、従四位下・左近衛権に叙任され、翌々日に左近衛中将に進みました。1598年(慶長3年)4月に従二位・権中納言に昇叙・昇進し、その後重態になった秀吉は再三諸大名に血判の誓紙を書かせ、秀頼に忠誠を尽くすことを誓わせました。1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が死去すると秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命で大坂城に移りました。
その後五大老・前田利家(まえだとしいえ)の死去や五奉行・石田三成(いしだみつなり)の失脚などにより、五大老筆頭・徳川家康(とくがわいえやす)が影響力を強めました。1600年(慶長5年)に石田三成らが徳川家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康が勝利すると秀頼は忠義者として労いました。ただ徳川家康は太閤蔵入地を勝手に分配し、秀頼は摂津・河内・和泉のみを知行する約65万石の大名になりました。1603年(慶長8年)2月に徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました。同年7月に秀頼は従兄妹で、徳川秀忠の娘・千姫と結婚しました。1611年(慶長16年)に徳川家康が秀頼と二条城二の丸御殿で会見しました。1614年(慶長19年)に方広寺鐘銘事件で大坂の陣が起こり、1615年(慶長20年)5月8日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。
●豊臣秀頼は1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿の間に豊臣秀吉の三男として生まれました。秀吉が57歳の時に生まれ、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政が拾い上げました。幼名は拾丸、乳母は宮内卿局・右京大夫局・正栄尼でした。秀吉は秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)7月に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼の継嗣としての地位を確定させました。秀頼は秀吉とともに伏見城に住み、1595年(文禄4年)3月に伏見移居の祝儀として、朝廷から勅使が遣わされ、太刀・馬が下賜されました。1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去すると秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の子・千姫と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件で大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に淀殿らとともに自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
【豊臣秀頼・豊公参朝列と時代祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
時代祭2026(時代行列日程・ルートマップ・・・)












