東本願寺大寝殿・東本願寺見どころ(修学旅行)

東本願寺大寝殿

●東本願寺大寝殿は登録有形文化財です。
●東本願寺大寝殿は1868年(明治元年)頃に建立されたとも言われています。東本願寺大寝殿はかつて幕末(江戸時代末期)に江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の将軍後見職だった江戸幕府第15代将軍・德川慶喜(とくがわよしのぶ)の宿所になりました。德川慶喜は1863年(文久3年)に約230年振りの将軍上洛に先立って上洛し、朝廷との交渉にあたりました。攘夷実行などの国政を今まで通りに江戸幕府に委任するか、大政奉還によって政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫りました。なお東本願寺大寝殿は東本願寺の正殿として、重要な法要儀式の場として使われています。座敷の最奥は全面上段として使われ、床・棚・書院・帳台構(ちょうだいがまえ)などがあります。
徳川慶喜は江戸時代後期の1837年(天保8年)10月28日に常陸水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)と有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の王女で、正室・吉子女王(よしこじょおう)の七男として江戸小石川の水戸藩邸で生まれました。1838年(天保9年)に江戸から水戸に移ったが、1847年(弘化4年)に御三卿(ごさんきょう)に数えられた一橋家相続の含みで、江戸幕府から江戸出府を命じられました。その後藩校・弘道館で学問・武術を学び、父・徳川斉昭から偏諱を賜り、松平昭致(まつだいら あきむね)と名乗りました。1847年(弘化4年)に一橋家を相続し、江戸幕府第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)から偏諱を賜わり、徳川慶喜と名乗りました。1853年(嘉永6年)の黒船来航時に徳川家慶が亡くなり、江戸幕府第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)が病弱だったことから将軍継嗣問題が起こり、徳川慶喜の一橋派と徳川家茂(とくがわいえもち)の南紀派が対立したが、大老・井伊直弼(いいなおすけ)の裁定により、徳川家茂が江戸幕府第14代将軍に決定しました。その後1858年(安政5年)からの井伊直弼による安政の大獄で謹慎になったが、1860年(安政7年)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると謹慎を解除され、1862年(文久2年)に将軍後見職に任命されました。1864年(元治元年)に将軍後見職を辞任して禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任しました。1866年(慶応2年)に徳川家茂が第二次長州征伐最中に大坂城で亡くなり、その後二条城で将軍宣下を受けて江戸幕府第15代将軍になったが、翌1867年(慶応3年)に政権を返上する大政奉還(たいせいほうかん)を行いました。戊辰戦争(ぼしんせんそう)後謹慎していたが、その後謹慎が解除され、1902年(明治35年)に公爵に叙せられました。その後貴族院議員にも就いたが、1910年(明治43年)に七男・德川慶久(とくがわよしひさ)に家督を譲って貴族院議員を辞しました。なお徳川慶喜は1913年(大正2年)11月22日に亡くなりました。
一般的に寝殿は住職などの寝室・居室です。寝殿は客間として使われることもあります。ちなみに平安時代から室町時代に寝殿造(しんでんづくり)が多く用いられ、室町時代後期から書院造(しょいんづくり)に変化していきます。
●東本願寺大寝殿は建築面積約945平方メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
東本願寺見どころ

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