東本願寺渉成園・東本願寺見どころ

東本願寺渉成園

●東本願寺渉成園は1936年(昭和11年)に国の名勝に指定されました。
●東本願寺渉成園は江戸時代前期の1641年(寛永18年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)から東本願寺第13代・宣如(せんにょ)に寄進され、1653年(承応2年)に宣如が隠居して屋敷を造営し、石川丈山(いしかわじょうざん)が作庭しました。東本願寺渉成園の名称は中国の詩人・陶淵明(とうえんめい)の「帰去来辞(ききょらいのじ)」の一節「園日渉而成趣(園、日に渉って以って趣を成す)」から名付けられました。その後1858年(安政5年)の火災・1864年(元治元年)の禁門の変によるどんどん焼けによって建物が焼失し、明治時代以降に建物が再建されました。なお東本願寺渉成園は平安時代初期(9世紀末)に第52代・嵯峨天皇の第8皇子で、光源氏のモデルと言われている左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘・六条河原院(ろくじょうかわらのいん・塩竃第)があった場所でした。
宣如は江戸時代初期の1604年(慶長9年)3月22日に東本願寺第12代・教如(きょうにょ)の第12子(三男)として生まれました。長兄・尊如、次兄・観如の早世により、法嗣になりました。1614年(慶長19年)に父・教如が亡くなると東本願寺第13代になりました。1641年(寛永18年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光から寄進された渉成園に隠居所を造営し、1653年(承応2年)に退隠し、次男・琢如(たくにょ)が東本願寺第14代になりました。なお宣如は1658年(万治元年)8月23日)に55歳で亡くなりました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
石川丈山は安土桃山時代の1583年(天正11年)に代々松平家(徳川家)に仕える譜代武士の家に生まれました。大叔父のもとで武芸を学び、1598年(慶長3年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の近侍になりました。しかし1615年(慶長20年)の大坂夏の陣(大坂の陣)で抜け駆けし、軍律違反で浪人になり、臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺(みょうしんじ)派大本山である京都・妙心寺に隠棲しました。1617年(元和3年)頃に友人である儒学者・林羅山(はやしらざん)の勧めで儒学者・藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事して儒学を学びました。その後母を養う為に紀州の浅野家に仕官し、浅野家の転封に従って広島(安芸)に移ったが、母の死後に強引に広島から京都に出て、1636年(寛永13年)に相国寺(しょうこくじ)近くに睡竹堂(すいちくどう)を建てて隠棲しました。1641年(寛永18年)に比叡山(ひえいざん)西麓に詩仙堂(しせんどう)の前身である山荘・凹凸か(おうとつか)を建てて終の棲家としました。石川丈山は清貧を旨として学問に没頭し、小堀遠州(こぼりえんしゅう)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)などと親交を持ちました。なお石川丈山は1672年(寛文12年)6月18日に90歳で亡くなりました。
東本願寺見どころ

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