東山三ヶ寺巡り2020/3/7~5/31(日程時間・・・)
東山三ヶ寺巡り
東山三ヶ寺巡り(日程・時間・・・)を紹介しています。東山三ヶ寺巡りは毎年春に行われています。東山三ヶ寺巡りでは智慧を積む寺とも言われる智積院・美をみがく寺とも言われる泉涌寺・福を招く寺とも言われる東福寺を巡ります。なお東山三ヶ寺巡りオリジナル御朱印帳をご購入すると三ヶ寺を拝観することができるそうです。(詳細下記参照)
【東山三ヶ寺巡り2020 日程時間(要確認)】
東山三ヶ寺巡り2020(●コロナによる実施の有無・内容要確認)は2020年(令和2年)3月7日(土曜日)~5月31日(日曜日)まで行われます。時間は9:00~16:00です。(東福寺の3月中の時間は9:00~15:30です。)
【東山三ヶ寺巡り・東福寺 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区本町十五丁目778番地
最寄り駅・バス停・・・東福寺(徒歩約10分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から東福寺は208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸町からは207系統
*河原町丸太町からは202系統
路線・時刻表・運賃チェック
*JR奈良線の場合、最寄り駅は東福寺駅(徒歩約10分)
*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は東福寺駅(徒歩約10分)
東福寺アクセス(電車・バス・・・)
泉涌寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
智積院(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【東山三ヶ寺巡り 歴史・簡単概要】
東山三ヶ寺巡り(ひがしやまさんかじめぐり)では他宗派の僧侶や一般の学徒も学んで智慧を積む寺とも言われる智積院・美しい面立から楊貴妃観音と言われる楊柳観音を祀って美をみがく寺とも言われる泉涌寺・奈良の東大寺と興福寺から「東」・「福」の字を取って福を招く寺とも言われる東福寺を巡ります。なお東山三ヶ寺巡りオリジナル御朱印帳をご購入すると三ヶ寺を拝観することができるそうです。
御朱印(ごしゅいん)・ご朱印は寺社が参拝・拝観者に授ける朱印(印章・印影)や寺社名・本尊祭神・参拝日などの墨書です。御朱印は寺社によって異なり、印章だけの場合や印章や墨書などを複写したものを授ける場合などもあります。また同じ寺院でも霊場・摂末社・イベント(特別公開)・時期などにより、御朱印が異なったり、特別の御朱印になったりすることもあります。
東福寺見どころ(三門・通天橋など)
泉涌寺見どころ(仏殿・開山堂など)
【東福寺 歴史・簡単概要】
東福寺(とうふくじ)は平安時代中期の924年(延長2年)に公卿・藤原忠平(ふじわらのただひら)が創建した藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)があった場所です。東福寺は鎌倉時代中期の1236年(嘉禎2年)に摂政・九条道家(くじょうみちいえ)が高さ5丈(約15メートル)の釈迦像(しゃかぞう)を安置する寺院を創建することを発願し、臨済宗の僧である聖一国師(しょういちこくし)・円爾(えんに)を開山として仏殿を建立したのが起源です。仏殿の建立には1236年(嘉禎2年)から1255年(建長7年)までの約19年も掛かり、天台宗・真言宗・禅宗の三宗兼学の堂塔も建立されました。東福寺の名称は奈良における最大の寺院である華厳宗(けごんしゅう)大本山・東大寺(とうだいじ)と奈良で最も盛大を極めた法相宗(ほっそうしゅう)大本山・興福寺(こうふくじ)から1字ずつ取り、東福寺となりました。ただ1319年(元応元年)の火災で釈迦像は焼失し、1334年(建武元年)・1336年(延元元年・建武3年)の火災によって伽藍の大部分を焼失しました。その後1346年(貞和3年)に関白・一条経道(いちじょうつねみち)が仏殿を再建したが、1881年(明治14年)の火災によって仏殿などが焼失しました。なお本堂(仏殿兼法堂)は1917年(大正6年)から再建が始まり、1934年(昭和9年)に完成しました。
東福寺は臨済宗東福寺派の大本山です。
*参考・・・京都・東福寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【泉涌寺 歴史・簡単概要】
泉涌寺(せんにゅうじ)は起源が明確ではありません。泉涌寺は平安時代前期の天長年間(824年~834年)に真言宗の開祖である弘法大師・空海が草庵を結んで、法輪寺と名付けたのが起源とも言われています。また泉涌寺は855年(斉衡2年)に左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が神修上人(じんしゅうしょうにん)に山荘を与えて寺院に改め、仙遊寺と称したのが起源とも言われています。その後1218年(建保6年)に月輪大師(がちりんだいし)・俊じょう(しゅんじょう)が鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の家臣・宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)から寄進され、1226年(嘉禄2年)に宋法式を取り入れた大伽藍を造営し、泉涌寺に名称を改めました。泉涌寺の名称は寺地の一角から清水が涌き出したことに由来し、現在も枯れることなく湧き続けています。1224年(貞応3年)に第86代・後堀河天皇が皇室の祈願寺とし、崩御後に後堀河天皇の陵墓が築かれ、1242年(仁治3年)に第87代・四条天皇が崩御すると葬儀が営まれました。なお泉涌寺は江戸時代以降、第108代・後水尾天皇から第121代・孝明天皇までが山内に葬られ、陵墓に香を焚き、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されるようになりました。
泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山です。
*参考・・・京都・泉涌寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【智積院 歴史・簡単概要】
智積院(ちしゃくいん)は根来寺の学頭・真憲坊長盛が平安時代に興教大師(こうぎょうだいし)・覚鑁(かくばん)が創建した大伝法院(だいでんぼういん・根来寺)の学頭寺院(塔頭・たっちゅう)として根来山内に創建したのが起源と言われています。ちなみに大伝法院は覚鑁が高野山に創建したが、教義上の対立から根本道場を根来山に移し、鎌倉時代中頃に頼瑜僧正(らいゆそうじょう)が根来山に寺籍を移しました。その後1585年(天正13年)に根来寺(大伝法院)が関白・豊臣秀吉と対立し、根来攻めによって焼失しました。1601年(慶長6年)に智積院住職・玄宥僧正(げんゆうそうじょう)が江戸幕府初代将軍・徳川家康から豊臣秀吉が豊国大明神として祀られていた豊国神社境内の坊舎・土地を寄進されて再興し、秀吉の子・棄丸(すてまる)の菩提を弔う為に創建された祥雲禅寺も賜って境内・伽藍が拡充されました。江戸時代前期に運敞僧正(うんしょう)が宗学を究め、智山教学を確立しました。なお智積院は本尊・金剛界大日如来を金堂に安置しています。
智積院は真言宗智山派の総本山です。
*参考・・・智積院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【東山三ヶ寺巡り 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
京都・東福寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報