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平野神社南門・平野神社見所(修学旅行・観光)
平野神社南門
●平野神社南門は京都府指定有形文化財です。
●平野神社南門は社記によると江戸時代前期の1651年(慶安4年)に京都御所の旧門を賜って建立されたと言われています。平野神社南門は江戸時代前期の1619年(元和5年)頃に京都御所・内裏(だいり)の女御御里御殿(にょうごおさとごでん)の門として建てられたとも言われています。平野神社南門はかつて大鳥居がある場所に建立されていたが、1943年(昭和18年)に現在の場所に移されました。
京都御所は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、内裏に代わる臨時の里内裏・土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)でした。平安京遷都時の内裏は京都御所から西約1.7キロの千本通(平安京の朱雀大路)沿いにあったが、失火や政変による火災によって度々焼失し、鎌倉時代の1227年(安貞元年)の火災後に再建されることはありませんでした。その後南北朝時代に第96代・後醍醐天皇が京都を逃れ、光厳天皇が北朝初代天皇になると土御門東洞院殿が北朝の内裏に定着し、1392年(明徳3年)の南北朝の合一後に正式な御所になりました。室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が敷地を拡大し、安土桃山時代に織田信長(おだのぶなが)や関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が整備しました。しかしその後度々焼失し、その都度再建されたり、建て替えられたりし、江戸時代後期の1855年(安政2年)に現在の内裏が再建されました。
女御御里御殿は女御の御里(実家)に代わり、女御の出産の際に使用される御殿です。女御御里御殿は女御の入内に合わせて造営されます。女御御里御殿には寝所・寝所兼産所などがありました。
●平野神社南門は一間薬医門(やくいもん)で、切妻造(きりづまづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。平野神社南門は両袖に本瓦葺(ほんがわらぶき)の壁があります。
薬医門は2本の本柱(鏡柱)の後方に2本の控え柱を立て、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)を架け、切妻屋根をのせた門です。薬医門は元々公家や武家の正門などに用いられたが、扉をなくして医家に用いられたことから名称の由来になりました。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
平野神社見どころ