本圀寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
本圀寺の歴史を時代別年表で紹介。
本圀寺の歴史を簡単にまとめています。本圀寺は1253年(建長5年)に日蓮聖人が鎌倉松葉ヶ谷に小庵を結び、法華堂と号したのが起源です。1263年(弘長3年)に再興され、山号・名称を大光山本国土妙寺と改められました。なお本圀寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(日蓮聖人)】
★日蓮宗(法華宗(ほけっしゅう))の宗祖・日蓮聖人(にちれんしょうにん)は1233年(貞永2年)に安房国・清澄寺の道善房に学び、1238年(暦仁元年)に出家し、1245年(寛元3年)に比叡山・定光院に住し、その後三井寺・薬師寺・仁和寺・高野山五坊寂静院・天王寺・東寺に遊学しました。1253年(建長5年)に清澄寺に帰山して日蓮宗を創始し、同年に清澄寺を退出したと言われています。
【本圀寺創建(起源・由来)】
★本圀寺は寺伝によると鎌倉時代の1253年(建長5年)8月に日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮聖人(にちれんしょうにん)が鎌倉松葉ヶ谷に小庵を結び、法華堂と号したのが起源です。日蓮聖人は小庵を結んで、22年住んだとも言われています。なお本圀寺は日蓮宗総大五山の初発唯一の寺で、大本山(霊跡寺院)とされています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★1261年(文応2年)に日蓮聖人が伊豆に配流され、本圀寺が破却されたとも言われています。
★1263年(弘長3年)に日蓮聖人が赦免されて鎌倉に戻り、法華堂(本圀寺)が再興され、山号・名称を大光山本国土妙寺と改め、宗門史上初の祖跡寺院になりました。
★1271年(文永8年)に日蓮聖人が佐渡に配流され、本圀寺が破却されたとも言われています。
★1307年(徳治2年)に本圀寺が再興されたとも言われています。
★1328年(嘉歴3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(だいごてんのう)から勅願所の綸旨を受け、勅願所になりました。また勅願「根本道場」を賜ったとも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
★1345年(興国6年・貞和元年)3月に本圀寺4世・三位日静上人(にちじょうしょうにん)が北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)の勅諚により、本圀寺は鎌倉から京都・六条堀川楊梅に移り、朝廷から正嫡付法(しょうちゃくふほう)の綸旨を受けました。三位日静上人は室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の母・上杉清子(うえすぎきよこ)の弟で、室町幕府から支援もあり、光厳天皇から寺地を賜ると京都に寺基を移転させました。本圀寺の寺地は北側が六条坊門(五条通)、南側が七条通、東側が堀川通、西側が大宮通に囲まれていました。なお本圀寺は以後、足利将軍家の庇護を受けました。
★1381年(天授7年・康暦3年)頃に本圀寺は四条門流の妙顕寺(みょうけんじ)とともに京都で日蓮宗を代表する寺院になったと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★1398年(応永5年)に第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)から勅願寺の綸旨を受け、勅願寺になりました。延暦寺(えんりゃくじ)は御所の艮(うしとら・北東)である鬼門に位置し、本圀寺が坤(ひつじさる・南西)である裏鬼門に位置することから皇室からも崇敬されました。本圀寺は六条門流の祖山として隆盛し、甲斐国(山梨県)の久遠寺(くおんじ)が「東の祖山」と言われるのに対し、本圀寺は「西の祖山」と言われるようになりました。
★1482年(文明14年)に第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の勅諚により、本圀寺が法華総本寺の認証を受けました。歴代天皇の綸旨を受け、立正安国・四海静謐を国祷する「正嫡付法」の「根本道場」として公認されました。
★1536年(天文5年)の天文法華の乱(てんぶんほっけのらん・法華一揆(ほっけいっき))によって焼失し、本圀寺が大阪堺にある末寺・成就寺(じょうじゅじ)に避難しました。
★1542年(天文11年)に第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)が法華宗帰洛の綸旨を下し、1547年(天文16年)に本圀寺が六条堀川の旧地に再建されました。
★1568年(永禄11年)に本圀寺は織田信長(おだのぶなが)の指示により、上洛した室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の仮居所(六条御所)になりました。
★1569年(永禄12年)に本圀寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆によって襲撃される本圀寺の変が発生したが、被害を免れました。その後織田信長が本圀寺の伽藍の一部を解体し、二条御所(二条城)の建物に転用されたと言われています。屏風などの什器類も移されたそうです。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が山城国菱川村(京都市伏見区)に朱印地177石を寄進しました。また同年に豊臣秀吉の命により、寺地の南側二町が西本願寺建立の為に西本願寺に割譲されました。
★1591年(天正19年)に日重(にちじゅう)が求法檀林(学問所)を開檀しました。
★1593年(文禄2年)に豊臣秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに)が梵鐘を寄進しました。
★1592年(文禄元年)に加藤清正(かとうきよまさ)が開運門(赤門)を寄進しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1615年(元和元年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が寺領を安堵しました。
★1685年(貞享2年)に水戸黄門(みとこうもん)とも言われる水戸藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)から「圀」の一字が下され、寺号を本圀寺に改めました。徳川光圀は本圀寺で、生母・久昌院(きゅうしょういん)の追善供養を行いました。
★1711年(正徳元年)に本圀寺は江戸幕府6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)の襲封祝賀の為に来日した朝鮮通信使の宿舎になりました。本圀寺は江戸時代前期から朝鮮通信使の定宿になっていました。
★1788年(天明8年)の天明の大火により、経蔵を除く、本堂・五重塔などの伽藍が焼失しました。
★1863年(文久3年)に鳥取藩士による本圀寺事件が起き、水戸藩主・徳川慶篤が率いた尊攘派藩士が駐屯し、御所や江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の警固に当たり、本圀寺勢(本圀寺党)と言われました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1872年(明治5年)に学制発布によって求法檀林が廃檀になりました。
★1941年(昭和16年)に日蓮宗は顕本法華宗・本門宗と合同し、新しい日蓮宗になったが、本末制度を解体したことから本圀寺の末寺が離散して混乱しました。
★1969年(昭和44年)に六条堀川から山科の現在の場所に移りました。
【日蓮聖人:本圀寺開山】
日蓮聖人は1222年(承久4年)に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村で生まれました。12歳で安房国・清澄寺に登り、その後鎌倉・比叡山などで11年間修行し、大乗仏教の経典「法華経」が至高の経典であるとを確信し、1253年(建長5年)に故郷の安房国で日蓮宗を創始しました。鎌倉で辻説法を行い、「立正安国論」を著して蒙古襲来を予言し、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼に献じたが、その後度々弾圧されて伊豆と佐渡に流されました。赦免後に甲斐身延山に隠棲して弟子の育成に努めたが、1282年(弘安5年)10月13日に武蔵国千束郡(東京都大田区池上)にある池上宗仲の屋敷で亡くなりました。
【本圀寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・本圀寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ