本圀寺経蔵・本圀寺見どころ(修学旅行・観光)

本圀寺経蔵

●本圀寺経蔵は1914年(大正3年)4月17日に国の重要文化財に指定されました。
●本圀寺経蔵は江戸時代前期の1607年(慶長12年)に再建されたとも言われています。経蔵は室町時代中期の1464年(寛政5年)12月、第9租・日暁大和尚の時代に室町幕府 第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が帰依し、高麗版の一切経(いっさいきょう)を寄進し、経蔵を建立したのが起源です。経蔵の中には引き出しの付いたハ角形の輪蔵があり、その計582個の引き出しに経典を納めた経箱が入っています。輪蔵をお題目を唱えながら一回転させると一切経を悉く拝読したのと同じ功徳があるとも言われています。
足利義政は1436年(永享8年)1月20日に室町幕府第6代将軍・足利義教と日野重子の五男として生まれました。当初出家して僧侶になる予定だったと言われています。1441年(嘉吉元年)に父・足利義教が赤松満祐に殺害され、同母兄・足利義勝が室町幕府第7代将軍になったが、1443年(嘉吉3年)に同母兄・足利義勝も早逝すると8歳で後継者になりました。1449年(文安6年)に元服して将軍宣下を受け、室町幕府第8代将軍になりました。1455年(康正元年)に日野富子を正室としました。その後室町幕府管領らの宿老中心の政治を嫌って遊興に耽るようになりました。1467年(応仁元年)に足利将軍家と管領・畠山氏と斯波氏の継嗣問題に端を発した応仁の乱(応仁・文明の乱)が起こり、1473年(文明5年)に次男・足利義尚に将軍職を譲って隠居しました。その後東山に慈照寺(銀閣寺)の前身である東山山荘(東山殿)を造営して「東山殿」と言われ、茶の湯・絵画など風雅な生活を送り、東山文化が築きました。庭師・善阿弥、狩野派の絵師・狩野正信、土佐派の絵師・土佐光信、画僧・宗湛、能楽者・音阿弥、わび茶・村田珠光、香道・志野宗信、済宗の禅僧・横川景三らを召抱え、東山文化が生まれました。なお足利義政は1490年(延徳2年)1月27日に亡くなりました。
一切経は仏教の経典を総集したものです。一切経は経蔵(仏の教説集)・律蔵(仏弟子の生活規範)・論蔵(インド仏教学者による経の解釈)の三蔵(さんぞう)を中心にそれらの注釈書などを加えたものです。一切経には古代インドの標準的文章語である梵語(サンスクリット語)・古代中西部インドのパーリ語の原典にチベット語・中国語・蒙古語・満州語などの訳本があります。一切経は大蔵経とも言われています。
八角輪蔵は中央の心柱を支えとする回転書架です。八角輪蔵はお釈迦様の転法輪に由来し、中国南朝梁の傅大士が起源とも言われています。傅大士は「一切経(大蔵経)」を閲覧する便を図って、転輪蔵を考案しました。
●本圀寺経蔵は桁行三間・梁間三間で、宝形造(ほうぎょうづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
宝形造は隅棟(すみむね)が屋根の中央に集まり、屋根の頂部に水平の棟を作らない屋根形式です。ちなみに宝形造は寄棟造(よせむねづくり)のように雨が四方に流れ落ちます。宝形造の名称は露盤(ろばん)・伏鉢(ふくばち)・宝珠(ほうじゅ))の総称を宝形と言うことに由来しています。なお宝形造は方形造とも言われています。屋根が六角形の場合に六注、八角形の場合に八注と言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
本圀寺

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