祇園祭と本能寺の変・明智光秀

祇園祭と本能寺の変・明智光秀(あけちみつひで)

祇園祭は平安時代前期に始まって千百年以上の歴史があり、その歴史の中で中止になったり、延期になったりしたこともありました。1582年(天正10年)6月2日に明智光秀が織田信長を襲撃して自刃させた本能寺の変では11月に延期されました。

【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【祇園祭と本能寺の変・明智光秀(あけちみつひで)】
祇園祭は平安時代前期に始まって千百年以上の歴史があり、その歴史の中で中止になったり、延期になったりしたこともありました。安土桃山時代(戦国時代)の1582年(天正10年)6月2日に明智光秀(あけちみつひで)が本能寺に宿泊していた織田信長(おだのぶなが)を襲撃して自刃させた本能寺の変では祇園祭が11月に延期されました。ちなみにこの時代の祇園祭は6月7日が神輿迎え、6月14日が祇園会とされ、神輿渡御・山鉾巡行などが行われていました。かつての本能寺は現在の場所と違い、京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町にあり、山鉾町の西側に位置していたが、神輿が渡御していた大宮通の東側に位置し、何らかの影響があったのかもしれません。明智光秀は本能寺の変後に京都の町衆らを味方に付ける為に洛中の地子(地税)を免除しています。江戸時代後期の寛政年間(1789年~1801年)に高崎藩の郡奉行・大石久敬が記した「地方凡例録」に「天正十壬午年逆臣明智光秀、織田信長を京都本能寺に於て弑し、京師の民を帰伏せしめん為に、翌十一未年洛中の地子を免許す、豊太閤光秀を誅し海内一統せしかども、光秀が政跡に因循して地租は其儘許し置、其後徳川氏海内一統ありても京師ハ勿論江戸東京・大坂・奈良・堺・伏見等総て都会の地子を許すと云」と記され、免税が江戸時代に引き継がれました。
明智光秀は5月26日に近江坂本城を出発して丹波亀山に帰り、5月27日に愛宕山に参籠して、2度、3度と籤(くじ)を引き、5月28日に威徳院西坊で連歌の会を催し、その後丹波亀山城に帰城しました。6月1日午後6時頃に軍勢を招集させ、午後10時頃に軍勢約1万3千人を率いて丹波亀山城を出陣し、その後軍議を開いて信頼する老臣に本意を告げます。老ノ坂を下って桂川を渡り、翌2日午前4時頃に本能寺を包囲し、寝込みの織田信長を襲撃しました。ちなみに織田信長は5月29日に安土を出発して上洛し、6月1日夜に茶会・囲碁で過ごし、深夜に就寝したが、騒がしい物音で目を覚まします。当初は喧嘩と思っていたが、鉄砲の音で襲撃を知ったと言われています。「信長公記」によると織田信長は蘭丸(森成利)に「こは謀反か。如何なる者の企て。」と尋ね、物見から戻った蘭丸が「明智が者と見え申し候。」と報告すると織田信長は「是非に及ばず。」と言ったと言われ、その後自刃しました。6月2日午前8時頃に本能寺への攻撃が終了し、織田信長の遺体を探したが、発見できなかったと言われています。正午頃に二条御新造を攻撃し、その後織田信長の嫡男・織田信忠が自刃しました。午後2時頃に京都を出発して近江に向かったが、瀬田城城主・山岡景隆が瀬田橋を焼いたことから一旦坂本に行きました。6月4日までに近江をほぼ平定し、6月5日に安土を占領し、6月8日に再び坂本に戻ります。6月7日に誠仁親王が吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せ、6月9日に公家衆の出迎えを受けて京都に入り、禁中・公家・五山・町衆らの人心掌握に務めました。なお明智光秀が本能寺の変を起こした理由は明確ではありません。最近の資料では四国・長宗我部問題が有力とも言われているそうです。

【明智光秀 祇園祭】
明智光秀は1528年(享禄元年)に明智光綱とお牧の方の間に生まれたと言われています。先ず美濃の戦国大名・斎藤道三に仕え、その後越前の戦国大名・朝倉義景に仕えたと言われています。朝倉義景を頼った室町幕府15代・足利義昭とともに織田信長に赴き、織田信長の家臣になりました。明智光秀は織田信長と足利義昭の間を取り持ち、足利義昭の上洛に尽力しました。1571年(元亀2年)に比叡山焼き討ちで功を上げ、近江滋賀郡を与えられ、坂本城を築城して城主になりました。1575年(天正3年)から丹波国攻略を開始し、1579年(天正7年)に丹波国を平定し、1580年(天正8年)に丹波一国を与えられ、横山城を改修して福知山城城主になりました。1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変を起こし、織田信長を自害させました。明智光秀は1582年(天正10年)6月13日に山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、落ち武者狩りで負傷して小栗栖で自害しました。明智光秀は天下人になってから僅か13日後に自害したことから「三日天下」と言われています。

【織田信長 祇園祭】
織田信長は1534年(天文3年)6月23日に織田信秀と継室・土田御前の間に生まれました。1551年(天文20年)に父が亡くなると家督を継ぎ、1555年(弘治元年)に織田信友を討って清洲城を居城とし、1557年(弘治3年)に弟・織田信行を排除し、1559年(永禄2年)に織田信賢を追放して尾張一国を統一しました。1560年(永禄3年)に桶狭間の戦で今川義元を敗死させ、1562年(永禄5年)に徳川家康と同盟を結びます。1567年(永禄10年)に斎藤龍興を滅ぼすと美濃国も領することになり、稲葉山城を岐阜城に改名して居城としました。1568年(永禄11年)に室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛し、1571年(元亀2年)に足利義昭に内通していた比叡山を焼き打ちし、1573年(天正元年)に足利義昭を河内に追放して室町幕府を滅ぼし、朝倉氏・浅井氏も滅ぼしました。1575年(天正3年)に長篠の戦いで武田勝頼を破り、1576年(天正4年)に安土城を築城し、1582年(天正10年)に武田氏を滅ぼしました。なお織田信長は1582年(天正10年)6月21日に本能寺の変で自刃しました。

【祇園祭と本能寺の変・明智光秀(あけちみつひで) 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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