祇園祭と保元の乱(ほうげんのらん)・馬上役
祇園祭と保元の乱(ほうげんのらん)・馬上役
祇園祭は平安時代前期に始まって1,100年以上の歴史があり、兵火(戦乱)によって影響を受けたことがありました。1156年(保元元年)7月に勃発した保元の乱では基本的に朝廷が負担していた祇園祭の執行費用に影響を与えました。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と保元の乱(ほうげんのらん)・馬上役】
祇園祭は平安時代前期に始まって1,100年以上の歴史があり、兵火(戦乱)によって影響を受けたことがありました。ちなみに室町時代中期の1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)まで続いた応仁の乱(おうにんのらん)では1500年(明応9年)までの33年間も中絶します。平安時代後期の1156年(保元元年)7月に勃発した保元の乱(ほうげんのらん)では基本的に朝廷が負担していた祇園祭の執行費用に影響を与えました。「八坂神社記録上」所収の「社家条々記録」に「保元二年(丑丁)六月一日、為添御霊会(祇園祭)祭礼、為増天神之威儀、副鎌鉾三張被下社家、勅云、為儼明神之祭礼、宜被下鉾、早尋捜洛中富家、可差定馬上役云々、則為断末代之牢籠、以御厩舎人六郎先生光吉勤仕、爰元亨三年馬上被停止了、自保元二年始差定、至丁元亨三年停止、年百六十七年也、」と記され、1157年(保元2年)に保元の乱の勝利した77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)が祇園祭執行の費用を負担する馬上役を洛中の富家から差定する制度を設け、その象徴として社家に鉾(鎌鉾)三張が下賜されました。馬上役制は鎌倉時代後期の1323年(元亨3年)に停止されたが、167年も続きました。馬上役は室町時代には馬上十二鉾として復活しました。
第77代・後白河天皇は絵師・常盤光長(ときわみつなが)らに「年中行事絵巻」に描かれ、その第9巻の「祇園御霊会の神輿遷幸」に平安時代後期に祇園祭の中心行事だった神輿渡御(還幸祭(かんこうさい))の様子が描かれています。「年中行事絵巻」は原本が散逸したり、内裏の火災で焼失したりしたが、江戸時代前期に後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))が土佐広通(とさひろみち・住吉如慶(すみよしじょけい))らに写させた模本が残されています。
【保元の乱 祇園祭】
保元の乱では1156年(保元元年)7月に皇位継承問題や摂関家(藤原氏)の勢力争いにより、第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)・藤原忠通(ふじわらのただみち)方と崇徳上皇(第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)))・藤原頼長(ふじわらのよりなが)方に分かれて戦われました。後白河天皇・藤原忠通は源義朝(みなもとのよしとも)・平清盛(たいらのきよもり)らを味方に付け、崇徳上皇・藤原頼長は源為義(みなもとのためよし)・平忠正(たいらのただまさ)らを味方に付けて戦われ、敗北した崇徳上皇は讃岐(香川)に配流され、藤原頼長は戦死し、源為義・平忠正は斬首されました。保元の乱は武士の政治への進出の契機になりました。
1141年(永治元年)に鳥羽法皇(第74代・鳥羽天皇(とばてんのう))が藤原璋子(ふじわらのしょうし・待賢門院(たいけんもんいん))との間に生まれた皇子である第75代・崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(ふじわらのとくし・美福門院(びふくもんいん))との間に生まれた体仁親王を第76代・近衛天皇(このえてんのう)に即位させました。ただ1155年(久寿2年)に病弱の近衛天皇が崩御し、崇徳上皇は天皇への復帰を望んでいたが、藤原得子の養子になっていた第77代・後白河天皇(しらかわてんのう)の第1皇子・子守仁親王(第78代・二条天皇(にじょうてんのう)) が即位するまでの中継ぎとして、第77代・後白河天皇が即位し、崇徳上皇の天皇復帰の望みが完全に絶たれ、後白河天皇と崇徳上皇の対立要因になりました。藤原忠通・藤原頼長の兄弟は藤原忠実の子です。藤原忠実・藤原頼長の親子は鳥羽法皇に重用され、藤原忠実は関白・藤原忠通から内覧を奪って、関白と氏長者(うじのちようじや)の地位を藤原頼長に与えました。しかし藤原忠通は藤原得子に接近し、藤原忠実・藤原頼長の親子は鳥羽法皇の信頼を失って失脚し、藤原忠通・藤原頼長の対立要因になります。1156年(保元元年)7月2日に鳥羽法皇が崩御すると対立が激しくなり、保元の乱が勃発します。
【祇園祭と保元の乱(ほうげんのらん)・馬上役 備考】
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