宝積寺三重塔・宝積寺見どころ(修学旅行・観光)

宝積寺三重塔

●宝積寺三重塔は1921年(大正10年)4月30日に国の重要文化財に指定されました。
●宝積寺三重塔は江戸時代前期の1604年(慶長9年)に建立されました。三重塔には安土桃山時代の1582年(天正10年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)と明智光秀(あけちみつひで)によって山崎の戦いが行われ、豊臣秀吉が山崎の合戦で亡くなった人を弔う為に一夜で建立したという「秀吉一夜造りの塔」との逸話が残されています。1968年(昭和43年)に解体・修理が行われ、丹塗りの美しい塔に復元されました。三重塔は内部は四天柱(してんばしら)・来迎壁(らいごうかべ)があり、須弥壇に大日如来(だいにちにょらい)坐像を安置しています。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲)の間に生まれました。先ず今川氏の家来で、引馬城の支城・頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝の養女・ねね(北政所)と恋愛結婚しました。その後墨俣一夜城を築城したり、数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城城主になりました。1577年(天正5年)から中国攻めを命じられ、1582年(天正10年)の高松城の水攻めの最中に明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変が起こりました。中国大返しで畿内に戻り、山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役が朝鮮半島で始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
大日如来は真言密教の教主で、宇宙の実相を仏格化した根本仏とされています。大日如来は太陽神が起源とされ、宇宙の根元で、諸仏・諸菩薩の本地とされています。なお大日如来は平安時代前期に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が密教とともに唐(中国)から日本に伝えました。大日如来は日本の密教において最高仏として位置付けられ、大日信仰が成立しました。大日如来は曼荼羅で主座を占め、智を示す金剛界曼荼羅で智拳印、理を示す胎蔵界曼荼羅で法界定印を結んでいます。大日如来は神仏習合では太陽神の性格を持つ天照大神と同一視されることもあります。なお大日如来は北方の不空成就如来・東方の阿しゅく如来・西方の阿弥陀如来・南方の宝生如来とともに五智如来と言われています。
●宝積寺三重塔は高さ約19.5メートルの三間(さんげん)三重塔婆(さんじゅうとうば)で、本瓦葺(ほんがわらぶき)です。三重塔は室町時代の和様(わよう)復古調を踏襲して建立されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
宝積寺

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