宝塔寺歴史-修学旅行・観光ポイント
宝塔寺の時代別年表と重要人物
宝塔寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。宝塔寺は平安時代前期に藤原基経が発願し、藤原基経の没後の899年(昌泰2年)に藤原基経の嫡男・藤原時平が創建した真言宗の寺院・極楽寺が起源とも言われています。なお宝塔寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(藤原基経)】
★宝塔寺が建立されている七面山(しちめんさん)は京都府京都市伏見区にある標高108メートルの山です。ちなみに日蓮宗(にちれんりゅう)の大本山・久遠寺(くおんじ)は山梨県南巨摩郡にある標高1,989メートルの七面山の山頂東北部(約73ヘクタール)を寺領としていました。山梨の七面山は久遠寺・「法華経(ほっけきょう)」を守護する七面大明神(七面天女)を祀っています。なお宝塔寺には七面天女を祀る七面堂が鎮守社として建立されています。
【宝塔寺創建(起源・由来)】
★宝塔寺は平安時代前期の嘉祥年間(848年~851年)に太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)が発願し、藤原基経の没後の899年(昌泰2年)に藤原基経の嫡男で、太政大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)が醍醐寺(だいごじ)開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)を開山として創建した真言宗(しんごんしゅう)の寺院・極楽寺(ごくらくじ)が起源とも言われています。なお藤原基経は891年(寛平3年)に深草の山に葬られたとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★平安時代中期に紫式部(むらさきしきぶ)が記した「源氏物語(げんじものがたり)」第三十三帖・「藤浦葉(ふじうらよう)」の帖に宝塔寺の前身・極楽寺の寺名が記されています。光源氏(ひかるがんじ)と葵の上の嫡男である夕霧の中将は葵の上の兄である内大臣の娘・雲居の雁(くもいのかり)といとこ同士で、二人はいずれも祖母・大宮の手元で育てられ、互いに恋心を抱くようになりました。ただ伯父の内大臣は雲居の雁を天皇に入内させたかったことから二人の結婚に反対します。しかし内大臣は雲居の雁の入内に失敗し、夕霧の中将の縁談の噂を聞きます。そして祖母・大宮の命日である3月20日に行われた極楽寺(宝塔寺)での法要が終わり、内大臣は夕霧の中将に雲居の雁との中を裂こうとしたことを許して欲しいと話し掛け、翌4月に内大臣の自邸で行う藤の花の宴に夕霧を招き、夕霧の中将と雲居の雁の結婚を許しました。なお宝塔寺では総門前に夕霧の中将と雲居の雁が仲睦まじく向き合っている像が建立されています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★1307年(徳治2年)に宝塔寺住持・良桂(りょうけい)が日蓮宗の宗祖・日蓮聖人(にちれんしょうにん)の孫弟子である肥後阿闍梨(ひごあじゃり)・日像上人(にちぞうしょうにん)に法論で論破されて帰依し、延慶年間(1308年~1311年)に真言宗から日蓮宗に改め、寺号を鶴林院(かくりんいん)に改めました。なお日像上人は日蓮聖人から帝都弘通宗義天奏の遺命を受け、1294年(永仁2年)に妙蓮寺(みょうれんじ)を創建しました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
★1342年(興国3年・康永元年)に日像上人は妙顕寺(みょうけんじ)で亡くなり、遺言によって鶴林院(宝塔寺)で荼毘に付されて葬られました。その後寺号を宝塔寺に改めたと言われています。宝塔寺の寺号は日像上人が京の七口(鞍馬口・大原口・荒神口・粟田口・伏見口・竹田口・鳥羽口・丹波口・長坂口)に建立した題目石塔「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」の1つを日像上人の廟所に祀ったことに由来しています。なお宝塔寺は日像上人の廟所を護り、更に日蓮聖人の真骨も奉安していることから古来、「西身延(にしのみのぶ)・巽之霊山(たつみのれいざん)」と言われ、深い信仰を集めました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★1438年(永享10年)に多宝塔が建立されました。
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、多宝塔以外の伽藍が全焼し、その後再建されたと言われています。
★1536年(天文5年)に天文法華の乱(てんぶんほっけのらん・法華一揆(ほっけいっき))が起こり、多宝塔以外の伽藍が全焼したと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★1585年(天正13年)に塔頭(たっちゅう)・霊光寺が再建され、1594年(文禄3年)に塔頭・自得院が建立され、1597年(慶長2年)に塔頭・圓妙院が建立されました。
★1590年(天正18年)に宝塔寺8世・日銀(にちぎん)が宝塔寺の伽藍を再建しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1608年(慶長13年)に本堂が再建されました。
★1648年(慶安4年)に塔頭・直勝寺が建立され、1657年(明暦3年)に塔頭・慈雲院が建立されました。
★1666年(寛文6年)に七面天女が勧請されて祀られました。
★1711年(宝永8年)に仁王門が再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1941年(昭和16年)に昭宣堂が建立されました。
★2003年(平成15年)に本堂が解体修理されました。
【藤原基経:宝塔寺開基山】
藤原基経は836年(承和3年)に中納言・藤原長良と総継の娘の三男として生まれました。男子がなく、実力者であった叔父で、太政大臣・藤原良房の養嗣子になりました。851年(仁寿元年)に第55代・文徳天皇から加冠されて元服し、その後蔵人・左兵衛佐・少納言・侍従などを歴任し、第56代・清和天皇が即位した858年(天安2年)に蔵人頭になり、864年(貞観6年)に参議になりました。866年(貞観8年)の応天門の変で政敵・伴善男を失脚させ、中納言になりました。869年(貞観10年)に実妹で、清和天皇の女御・藤原高子が第57代・陽成天皇となる貞明親王を生み、872年(貞観14年)に右大臣になり、同年に養父・藤原良房が亡くなると実力者になり、880年(元慶4年)に太政大臣にになりました。887年(仁和3年)に第59代・宇多天皇の即位にあたり、藤原基経に与えた関白の詔の文字を巡ってた阿衡事件が起こり、政治を放棄し、その後関白の権威を天皇に認めさせました。藤原基経は清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握り、史上初の関白に就任しました。なお藤原基経は891年(寛平3年)に亡くなりました。
【宝塔寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・宝塔寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia