百萬遍知恩寺阿弥陀堂・百萬遍知恩寺見所(修学旅行・観光)

百萬遍知恩寺阿弥陀堂

●百萬遍知恩寺阿弥陀堂は2017年(平成29年)2月23日に国の重要文化財に指定されました。
●百萬遍知恩寺阿弥陀堂は江戸時代後期の1832年(天保3年)に再建されました。阿弥陀堂は阿弥陀如来が住むという西方浄土がある西を背にして建てられ、本尊・阿弥陀如来立像(鎌倉時代造仏)を安置しています。阿弥陀堂では来迎壁(らいごうかべ)裏に宮中御用絵師・土佐光孚(とさみつざね)が描いた騎獅(きし)の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)があります。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は弥陀仏(みだぶつ)・阿弥陀仏(あみだぶつ)・無量光仏(むりょうこうぶつ)・無量寿仏(むりょうじゅぶつ)などとも言われています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。阿弥陀如来は紀元100年頃に編纂された大乗仏教の経典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」によると世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで出家して修行していた時、法蔵比丘(ほうぞうびく)という菩薩(法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ))であったが、48の誓願(四十八願 (しじゅうはちがん))を立てて修行して仏になり、仏国土(ぶっこくど)である極楽浄土(ごくらくじょうど)を設立して現在もそこで説法しているとされています。なお阿弥陀如来は日本浄土宗(じょうどしゅう)の本尊になっています。
土佐光孚は1780年(安永9年)5月27日に土佐派別家の初代・土佐光貞(とさみつさだ)の長男として生まれました。1790年(寛政2年)の寛政度御所造営に参加し、内裏(だいり)清涼殿(せいりょうでん)の布障子に「墨画名所図」、仙洞御所(せんとうごしょ)小書院(しょうしょいん)の床張付小襖に「花鳥」を父とともに描きました。また1818年(文政元年)に「大嘗会(だいじょうえ)悠紀主基屏風(ゆきすきびょうぶ)」も描きました。1790年(寛政2年)に従六位上(じゅろくい じょう)・備後介(びんごのすけ)に叙され、1852年(嘉永5年)に正四位下(しょうしいげ)に昇叙しました。土佐光孚は「四季草花折枝図屏風」・「子の日遊・虫選び図」・「倣徐熙白鷺図」などを描きました。なお土佐光孚は1852年(嘉永5年)5月23日に亡くなり、百萬遍知恩寺に墓があります。
●百萬遍知恩寺阿弥陀堂は桁行五間・梁間五間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。阿弥陀堂は釈迦堂と同じ禅宗様(ぜんしゅうよう)を基本とし、江戸時代末期の流行も取り入られています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
百萬遍知恩寺

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