百萬遍知恩寺御廟・百萬遍知恩寺見所(修学旅行・観光)

百萬遍知恩寺御廟

●百萬遍知恩寺御廟は2017年(平成29年)2月23日に国の重要文化財に指定されました。
●百萬遍知恩寺御廟は江戸時代中期の1731年(享保16年)に建立されました。御廟は浄土宗の宗祖・法然上人と第2世・勢観房源智の墓石を覆う形の廟堂として建てられています。御廟は内部の床が磚敷き(せんじき)で、天井は格式の高い格天井(ごうてんじょう)です。御廟を中心とした歴代墓地の入口には念仏・五念門などに通じる「念」の字を模った珍しい念字門があり、鳥居のような結界の意味があると言われています。
法然上人は1133年(長承2年)に押領使・漆間時国と秦氏君清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に父が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に比叡山に登って源光に師事して天台を学びました。1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空のもとで修業し、法然房源空と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導の「観無量寿経疏」や恵心僧都・源信の「往生要集」により、「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏に専修する悟りに達し、浄土宗を開教しました。京都吉水に草庵を結んで老若貴賤に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺・延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。法然上人は関白・九条兼実の要請により、「選択本願念仏集」を記したり、弟子・勢観房源智に遺言として「一枚起請文」を授けました。なお法然上人は1212年(建暦2年)に東山大谷で亡くなりました。
勢観房源智は1183年(寿永2年)に平師盛の子として生まれたと言われています。平家没落後に母とともに源氏の探索から逃れ、1195年(建久6年)に法然上人の弟子になりました。その後法然上人に帰依した九条兼実の実弟で、天台座主・慈円のもとで出家得度しました。法然上人の高弟・真観房感西のもとで学び、真観房感西が亡くなると法然上人の元に戻り、1212年(建暦2年)に法然上人が亡くなるまでの約12年間近侍しました。勢観房源智は法然上人の臨終の2日前に遺言を記した「一枚起請文」を授けられました。また法然上人から本尊・坊舎・円頓戒の道具などをも授かりました。法然上人没後に延暦寺衆徒による弾圧・嘉禄の法難が起こり、坊舎・法然上人の廟所などが荒廃したが、1234年(文暦元年)に再興しました。1237年(嘉禎3年)に教団を鎮西義の弁長に託する書状を書き、1238年(暦仁元年)に法然上人が住んだ賀茂の河原屋の旧跡・功徳院で亡くなりました。
●百萬遍知恩寺御廟は桁行一間・梁間一間で、宝形造(ほうぎょうづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
宝形造は隅棟(すみむね)が屋根の中央に集まり、屋根の頂部に水平の棟を作らない屋根形式です。ちなみに宝形造は寄棟造(よせむねづくり)のように雨が四方に流れ落ちます。宝形造の名称は露盤(ろばん)・伏鉢(ふくばち)・宝珠(ほうじゅ))の総称を宝形と言うことに由来しています。なお宝形造は方形造とも言われています。屋根が六角形の場合に六注、八角形の場合に八注と言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
百萬遍知恩寺

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