百萬遍知恩寺歴史-修学旅行・観光ポイント

百萬遍知恩寺

百萬遍知恩寺の時代別年表と重要人物

百萬遍知恩寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。百萬遍知恩寺は平安時代末期に浄土宗の開祖・法然上人が「念仏のみ教え」を説いた賀茂の禅坊が起源とも言われています。ちなみに賀茂の禅坊は現在の相国寺付近にあったそうです。なお百萬遍知恩寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(賀茂の禅坊)】

★百萬遍知恩寺は平安時代(794年~1185年)前期に第3代天台座主(てんだいざす)である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)が創建し、平安時代後期に皇円阿闍梨(あじゃり)の住房・比叡山功徳院(くどくいん)の里坊(さとぼう)が前身とも言われています。里坊は京都御所北側で、現在の相国寺(しょうこくじ)付近にあり、神宮寺(じんぐうじ)として賀茂社(下鴨神社(しもがもじんじゃ))との関わりが深く、賀茂の禅坊・賀茂の神宮寺・賀茂の河原屋などと言われていました。また慈覚大師・円仁作と言われる釈迦如来(しゃかにょらい)像を安置したことから賀茂の釈迦堂・今出川釈迦堂などとも言われていました。
★下鴨神社は社伝によると初代・神武天皇(じんむてんのう)の時代(紀元前660年~紀元前582年)に祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が比叡山(ひえいざん)西麓の御蔭山(みかげやま)に降臨したのが起源とも言われています。

【百萬遍知恩寺創建(起源・由来)】

★百萬遍知恩寺は平安時代末期に浄土宗(じょうど)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が「念仏のみ教え」を説いた賀茂の禅坊が起源とも言われています。法然上人は皇円阿闍梨の下で得度し、度々この地を訪れていたが、賀茂社(下鴨神社)の神職に招かれて、賀茂の禅坊に住したと言われています。

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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1212年(建暦2年)に法然上人が亡くなり、直弟子・勢観房源智上人(せいかんぼうげんちしょうにん)が賀茂の禅坊を継いで、功徳院神宮堂と改め、法然上人の御影を安置し、法然上人を勧請開山1世にしました。その後勢観房源智上人は師・法然上人の恩に報いる為には「恩」を「知」らなければならないと知恩寺と名付けました。勢観房源智上人は知恩寺を念仏の道場とし、勢観房源智上人の門流・紫野(しの)門徒の拠点として伽藍が整備され、如空の時代に功徳院知恩寺と称しました。
★1276年(建治2年)に鎮西義(ちんぜいぎ)の弁長の弟子・良忠が鎌倉から訪れ、紫野門徒の百萬遍知恩寺3世・信慧は東山・赤築地(あかつじ)で談義を行い、鎮西義と紫野門徒で相違するところが全くなく、符合したことから鎮西義に合流し、紫野門徒の拠点・知恩寺と良忠の知恩院(ちおんいん)が鎮西義の拠点になりました。
★1331年(元弘元年)に百萬遍知恩寺8世・善阿空円上人(ぜんなくうえんしょうにん)が南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の勅命により、七日七夜に渡って百萬遍の念仏を唱えながら大念珠繰りを行うと流行していた疫病が治まったことから勅号「百萬遍」を賜りました。また弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)筆の「大利剣名号」の軸と五百四十顆の念珠も賜りました。同年8月に畿内で大地震が起こり、疫病が流行して多くの死者が出たことから勅命により、善阿空円上人が宮中に参内し、七日七夜の念仏を行ないました。なお百萬遍知恩寺は皇室の篤い帰依を受け、国家安穏を祈願する祈願所になったと言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

★1382年(弘和2年・永徳2年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が相国寺を創建した際、百萬遍知恩寺が一条小川(京都市上京区元百万遍町)に移されました。百萬遍知恩寺はその後も度々移されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★室町時代中期に第102代・後花園天皇(ごはなぞのてんのう)から帰依され、浄土一宗第一寺とされました。
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、伽藍が焼失したと言われています。
★1479年(文明11年)に本堂(釈迦堂)が再建されました。
★1508年(永正5年)に大内義興と三好之長の合戦により、本堂が焼失しました。
★1519年(永正16年)に室町幕府が本堂を再建しました。翌1520年(永正17年)に細川高国に捕らえられた三好之長が百萬遍知恩寺で自刃させられました。
★1523年(大永3年)に百萬遍知恩寺25世・慶秀(けいしゅう)と知恩院25世・超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)との間で、本寺争いが起こり、知恩寺が敗れて第一の座次を知恩院に譲りました。
★1536年(天文5年)に天文法華の乱(てんもんほっけのらん)によって焼失しました。
★1565年(永禄8年)にポルトガル人の宣教師でありルイス・フロイスが訪れました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から山城国深草村の30石が朱印地として寄進されました。
★1592年(天正20年)に関白・豊臣秀吉の命により、土御門に移りました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1661年(寛文元年)に火事で焼失しました。
★1662年(寛文2年)に中興の祖で、百萬遍知恩寺39世・光誉満霊上人(まんれいしょうにん)が百萬遍知恩寺を現在の場所に移して再興し、御影堂を建立しました。
★1664年(寛文4年)に釈迦堂が建立されました。
★1756年(宝暦6年)に百萬遍知恩寺48世・震誉紫雲上人(しうんしょうにん)が御影堂を一回り大きな総欅造りに改めました。
★1811年(文化8年)に初めて阿弥陀堂が建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の神仏分離令により、下鴨神社の神宮寺としての立場を離れました。
★1982年(昭和57年)に法然上人坐像の胎内から法然上人の遺髪・遺骨が発見されました。

【法然上人:百萬遍知恩寺開山】

法然上人は1133年(長承2年)に美作国(岡山)の押領使・漆間時国と秦氏君清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に父が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に延暦寺に登り、源光に師事して天台を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空のもとで修業し、法然房源空と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導の「観無量寿経疏」や天台宗の僧である恵心僧都・源信の「往生要集」により、「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏に専修する悟りに達し、浄土宗を開きました。京都吉水に草庵を結んで老若貴賤に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺・延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)に東山大谷で亡くなりました。

【百萬遍知恩寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・百萬遍知恩寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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