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百萬遍知恩寺釈迦堂・百萬遍知恩寺見所(修学旅行・観光)
百萬遍知恩寺釈迦堂
●百萬遍知恩寺釈迦堂は2017年(平成29年)2月23日に国の重要文化財に指定されました。
●百萬遍知恩寺釈迦堂は江戸時代前期の1664年(寛文4年)に再建されました。釈迦堂は平安時代から賀茂の釈迦堂として知られており、百萬遍知恩寺の本堂になります。釈迦堂は本尊である一丈六尺の釈迦如来坐像を安置しています。ちなみに釈迦如来坐像は寺伝によると第3代天台座主である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)作と言われているが、胎内の書付によると江戸時代前期の1664年(寛文4年)に第39世・光譽萬霊上人が再興したと言われています。ただ一部は平安時代に造仏されたものと見られるそうです。
お釈迦さまは仏教の開祖で、世界四聖の一人です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。
慈覚大師・円仁は794年(延暦13年)に下野国(栃木県)に生まれました。808年(大同3年)に唐(中国)から帰国した天台宗の宗祖である伝教大師・最澄に師事し、その後最澄最期の14年間に仕えました。814年(弘仁5年)に言試に合格し、翌815年(弘仁6年)に得度しました。816年(弘仁7年)に奈良・東大寺で具足戒を受け、822年(弘仁13年)に最澄から一心三観の妙義を授けられ、その後最澄は亡くなりました。829年(天長6年)から横川に隠棲して苦修練行を続け、838年(承和5年)に最後の遣唐使として唐に渡りました。840年(承和7年)に中国五台山を巡礼して最高峰の標高3,058メートルの北台叶斗峰に登り、その後大興善寺の元政から灌頂を受け、青竜寺の義真からも灌頂を受けました。847年(承和14年)に仏典・金剛界曼荼羅などを持って帰国し、848年(嘉祥元年)に比叡山に戻り、854年(斉衡元年)に第3代天台座主に就きました。なお慈覚大師・円仁は864年(貞観6年)に亡くなりました。
●百萬遍知恩寺釈迦堂は桁行五間・梁間五間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。釈迦堂は中世に浄土宗寺院が禅宗寺院の建築様式の影響を受け、釈迦堂もその影響を踏襲した様式になっています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
百萬遍知恩寺