一和・一文字屋和助(アクセス・マップ・概要・・・)あぶり餅
一和・一文字屋和助
一和・一文字屋和助(アクセス・見どころ・歴史概要・料金・・・)情報を紹介しています。一和のあぶり餅は一人前一皿が11本(13本)です。11本(13本)という中途半端な数は陰陽道で、奇数が縁起がよい数字とされているからだそうです。奇数は中国で聖数とされ、日本では奇数が割り切れないことから縁起がよいとされています。
【一和・一文字屋和助 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市北区紫野今宮町69
最寄り駅・バス停・・・今宮神社前(徒歩すぐ)、船岡山(徒歩約5分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から今宮神社は206系統(A3乗り場)今船、206系統(A3乗り場)船
*四条河原町からは12系統船、46系統今、205系統船
*四条烏丸からは46系統今、12系統船
*河原町丸太町からは204系統船、205系統船
路線・時刻表・運賃チェック
【一和・一文字屋和助 拝観時間・時間(要確認)】
10:00~17:00
水曜日(1日・15日・祝日の場合、翌日)・年末(12/16~12/31)は休日
【一和・一文字屋和助 拝観料金・料金(要確認)】
1人前・600円(価格変更の可能性あり)
【一和・一文字屋和助 歴史・簡単概要】
一和(いちわ)・一文字屋和助(いちもんじやわすけ)は京都府京都市北区紫野今宮町にあります。今宮神社(いまみやじんじゃ)の東参道の北側にあります。一和は平安時代中期の1000年(長保2年)に創業したと言われています。現在、今宮神社が祀られている場所は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都以前から疫病鎮めの為の疫神(えきしん)を祀っていた場所でした。994年(正暦5年)に疫病が流行し、悪疫退散(あくえきたいさん)を祈願する為、御輿(みこし)2基を造って船岡山(ふなおかやま)に泰安した紫野御霊会(ごりょうえ)が今宮神社の今宮祭の起源と言われています。一和の初代は1000年(長保2年)に供えられた餅を小さく切って炭火で炙り、祈願に使われた竹(斎串(いぐし))を割ってできた串に刺し、白みそのタレを絡め、振舞ったのがあぶり餅の起源と言われています。またあぶり餅は一和の初代が香隆寺(こうりゅうじ)の名物「おかちん(勝餅)」を今宮神社に奉納したのが始まりとも言われているそうです。ちなみに今宮神社は悪疫除けの神社、一和のあぶり餅は疫病除けの餅とも言われています。一和の店内には平安時代(794年~1185年)から使われている井戸が残されています。井戸はつるべ式ではなく、らせん状の階段を使って地下に下りる形式で、カタツムリに似ていることから「まいまい井戸」とも言われているそうです。その後室町時代(1336年~1573年)中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が勃発したが、一和は今宮神社とともに兵火を免れ、あぶり餅を近隣の人に振舞ったと言われています。安土桃山時代(1573年~1603年)に茶人・千利休があぶり餅を茶菓に使ったと言われています。江戸時代中期の元禄年間(1688年~1704年)に現在の建物の一部が建てられ、また江戸時代中期頃からタレに砂糖を入れるようになりました。その後大正時代(1912年~1926年)に現在の建物の一部が増築されました。なお一和ではあぶり餅を作るのは女性の仕事とされています。一和は元祖を名乗り、南側のかざりやは本家・根元を名乗っています。
*参考・・・一和・一文字屋和助(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)
【一和・一文字屋和助 見どころ・文化財(非公開の場合あり)】
一和の見どころはあぶり餅です。あぶり餅は親指大にちぎった餅が長さ20センチほどの竹串に刺し、きな粉を付けて炭火で炙り、白味噌のタレをからめたものです。あぶり餅はレシピ書きなどがなく、味を一子相伝で受け継いでいるそうです。また京都市の景観重要建造物に指定されている建物やいずれも安土桃山時代の手水鉢(ちょうずばち)・屋根の鍾馗(しょうき)も見どころです。一和には店頭のイス席以外にも庭を眺める座敷席もあります。
【一和・一文字屋和助 連絡先(現在確認中)】*電話は控えて下さい。迷惑になります。
電話番号・・・075-492-6852(一和)
【一和・一文字屋和助 備考(アクセス・御朱印・駐車場・・・)】
【一和・一文字屋和助 おすすめ散策ルート】
一和からのおすすめ散策ルートは南側に位置する大徳寺に向かうルートです。大徳寺には茶人・千利休が切腹の原因になったとも言われている三門などの伽藍があります。また大徳寺山内には関白・豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行った総見院などの塔頭などもあり、大徳寺だけでなく、塔頭も散策するのがおすすめです。