高山寺明遺香庵特別拝観/4/(日程時間・・・)
高山寺明遺香庵特別拝観
高山寺明遺香庵特別拝観(日程・時間・・・)を紹介しています。遺香庵特別拝観では通常非公開で、京都市指定名勝である遺香庵が一般公開されます。遺香庵は茶室だが、火灯窓が設けられるなど僧堂風の意匠も見られます。小さい茶庭は作庭から約90年が経ち、苔の風情が美しいと言われています。(詳細下記参照)
【高山寺明遺香庵特別拝観2022 日程時間(要確認)】
高山寺明遺香庵特別拝観2022(●コロナによる実施の有無・変更要確認)は2022年(令和4年)4月1日(金曜日)~6月26日(日曜日)の限定日に行われます。事前予約制で特別公開を行っています。(要確認)(現在確認中・要注意)
【高山寺明遺香庵特別拝観 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8
最寄り駅・バス停・・・栂ノ尾(徒歩すぐ)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅・四条大宮から高山寺は高雄京北線 栂ノ尾・周山行き
西日本JRバス・アクセスダイヤ
【高山寺明遺香庵特別拝観 歴史・簡単概要】
高山寺明遺香庵特別拝観(いこうあんとくべつこうかい)は例年春や秋などに行われています。
遺香庵特別拝観では通常非公開で、京都市指定名勝である遺香庵が一般公開されます。遺香庵はかつて塔頭(たっちゅう)寺院が建立されていた場所に建てられています。遺香庵は茶室だが、火灯窓(とうかまど)が設けられるなど僧堂風の意匠も見られます。遺香庵の小さい茶庭は作庭から約90年が経ち、苔の風情が美しいと言われています。
茶室・遺香庵は1931年(昭和6年)に明恵上人700年遠忌記念として、茶道家の懇志によって建てられました。発起人は古美術商の土橋嘉兵衛・実業家の高橋箒庵らです。茶室の設計は3代・木村清兵衛、茶庭の作庭は7代・小川治兵衛です。
明恵上人は1173年(承安3年)に高倉上皇の武者所に仕えていた平重国と紀伊国湯浅城城主・湯浅宗重の四女の子として生まれました。1180年(治承4年)に両親が亡くなり、翌1181年(養和元年)に神護寺に入って尊実・景雅らに密教・華厳宗を学び、1188年(文治4年)に叔父で、文覚の弟子・上覚を師事して出家し、東大寺戒壇院で具足戒を受けました。また勧修寺慈尊院2世・興然から密教を学び、東大寺尊勝院で華厳学の研究に励みました。1195年(建久6年)に紀州白上の峰に籠り、1198年(建久9年)に高雄に戻ったが、その後紀伊を転々としました。1206年(建永元年)に後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山しました。明恵上人は華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力しました。明恵上人は「摧邪輪」・「摧邪輪荘厳記」・「華厳唯心義」・「華厳信種義」などを記し、また40年の夢想を記録した「夢記」も記しました。
高山寺見どころ
【高山寺 歴史・簡単概要】
高山寺(こうざんじ・こうさんじ)は奈良時代後期の774年(宝亀5年)に第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)の勅願によって創建され、神願寺都賀尾坊(じんがんじとがのおぼう)と称したのが起源とも言われています。平安時代前期の814年(弘仁5年)に神願寺都賀尾坊から都賀尾十無尽院(とがのじゅうむじんいん)に名称を改めました。平安時代後期に神護寺(じんごじ)の別院になり、神護寺十無尽院(じんごじじゅうむじんいん)と称されました。その後鎌倉時代前期の1206年(建永元年)に明恵上人(みょうえしょうにん)が後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))の院宣により、神護寺十無尽院を賜り、華厳宗(けごんしゅう)の根本道場として再興しました。高山寺の名称は後鳥羽上皇から賜った勅額「日出先照高山之寺(日、出でて、まず高き山を照らす)」に由来しています。なお高山寺は1994年(平成6年)世界遺産条約により、ユネスコ世界文化遺産(古都京都の文化財)のひとつに登録されました。
高山寺は真言宗系の単立の寺院です。
*参考・・・高山寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
【高山寺明遺香庵特別拝観 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
高山寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報