石清水八幡宮東門・西門・石清水八幡宮見どころ(修学旅行・観光)

石清水八幡宮東門・西門

●石清水八幡宮東門・西門は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、2016年(平成28年)2月9日に国宝に指定されました。
●石清水八幡宮東門・西門は江戸時代前期の1634年(寛永11年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が再建しました。西門には蟇股(かえるまた)部分に左甚五郎(ひだりじんごろう)作とも言われる琵琶の木にぶらさがり、木の実をくわえる一匹の猿の彫刻があります。ある日、猿に魂が宿り、夜になると蟇股から抜け出して山麓の畑を荒らし、困ったお百姓さんが石清水八幡宮に相談すると蟇股から抜け出せないように猿の右目に釘が打ちつけられ、それ以降悪さをしなくなったという逸話が残され、猿は「目貫きの猿」とも言われるようになりました。
左甚五郎は1594年(文禄3年)に足利家家臣・伊丹左近尉正利(いたみさこんのじょうまさとし)の子・伊丹利勝(いたみとしかつ)として播磨国明石に生まれたとも言われています。父が亡くなると叔父で、飛騨高山藩士・河合忠左衛門(かわいちゅうざえもん)宅に身を寄せ、1606年(慶長11年)に京都・伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次(ゆさほうきょうよへいじ)の弟子になりました。1619年(元和5年)に江戸に下り、将軍家大工頭・甲良宗広(こうらむねひろ)の女婿になり、堂宮大工棟梁として名を上げました。その後江戸城改築に参画したことから刺客に狙われ、1634年(寛永11年)から老中・土井利勝(どいとしかつ)の女婿で、讃岐高松藩主・生駒高俊(いこまたかとし)のもとで庇護されました。1640年(寛永17年)に京都に戻って禁裏大工棟梁になり、法橋(ほうきょう)の官位を得ました。1642年(寛永19年)に高松藩の客文頭領になりました。左甚五郎は日光東照宮の眠り猫、園城寺(三井寺)の閼伽井屋の龍、養源院の鶯張りの廊下、祇園祭の鯉山の鯉、秩父神社の子宝・子育ての虎とつなぎの龍・上野東照宮の昇り龍・降り龍などを制作したとも言われています。また左甚五郎は逸話も多く、歌舞伎・講談・浪曲・落語などで取り上げられています。ちなみに左甚五郎の名は左ききだった為とも、右腕をなくして左手で仕事をした為とも言われています。(諸説あり)なお左甚五郎は1651年(慶安4年)頃に高松で亡くなったとも言われています。
徳川家光は1604年(慶長9年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠と浅井長政の娘・江(崇源院)の次男として生まれました。幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康と同じ竹千代、乳母は春日局です。徳川家光は病弱で、吃音があり、1606年(慶長11年)に秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による祖父・家康への直訴によって家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)に秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になりました。家光は武家諸法度・参勤交代制などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。また多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。なお徳川家光は1651年(慶安4年)に亡くなりました。
●石清水八幡宮東門・西門はいずれも一間一戸門(いっけんいっこもん)です。東門・西門はいずれも梁間二間で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。東門は東面庇葺きおろし、西門は西面庇葺きおろしです。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
石清水八幡宮見どころ

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