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神護寺大師堂・神護寺見所(修学旅行・観光)
神護寺大師堂
●神護寺大師堂は1902年(明治35年)4月17日に国の重要文化財に指定されました。
●神護寺大師堂は桃山時代(1573年~1614年)に豊前国小倉藩初代藩主・細川忠興(ほそかわただおき)が再建しました。大師堂は真言宗の宗祖である弘法大師・空海の住房・納涼房(どうりょうぼう)跡に建立され、内陣に板彫弘法大師像(重要文化財)が安置されていています。
細川忠興は1563年(永禄6年)11月28日に室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝の長男として生まれました。1565年(永禄8年)の永禄の変で義輝が殺害され、その後父が織田信長に仕え、忠興は信長の嫡男・織田信忠に仕えました。1578年(天正6年)に元服し、信忠から1字を与えられ、忠興と名乗るようになりました。また同年に信長の仲介により、明智光秀の娘・玉子(細川ガラシア)と結婚しました。1579年(天正7年)に信長の命により、父や義父・光秀とともに丹後国守護・一色義道を滅ぼし、1580年(天正8年)に父が丹後国南半国の領主になりました。1582年(天正10年)に義父・光秀による本能寺の変が起こると父とともに喪に服して剃髪し、妻を丹後国味土野に幽閉しました。その後関白・豊臣秀吉に仕え、1588年(天正16年)に豊臣姓を下賜されました。1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍として戦いました。その後丹後国12万石から豊前国中津33万9千石に転封され、その後中津城から小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主になりました。1620年(元和6年)に病気の為に三男・細川忠利に家督を譲って隠居し、出家して三斎宗立と名乗りました。忠興は利休七哲のに数えられ、茶道三斎流の開祖です。なお細川忠興は1646年(正保2年)1月18日に亡くなりました。
弘法大師・空海は774年(宝亀5年)に佐伯直田公と阿刀大足の妹の間に生まれました。789年(延暦8年)に母方の叔父・阿刀大足のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に官僚育成機関である大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺の恵果のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「遍照金剛」の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
●神護寺大師堂は桁行左側面四間・桁行右側面五間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
神護寺