地主神社地主桜・地主神社見どころ

地主神社地主桜

●地主神社地主桜は1962年(昭和37年)に佐野藤右衛門(さのとうえもん)から献木されました。かつての地主桜は平安時代前期の811年(弘仁2年)に第52代・嵯峨天皇が行幸した際、その美しさに3度車を返したことから「御車返しの桜(みくるまがえしのさくら)」とも言われています。地主桜は一樹に八重と一重の花を同時に咲かせました。なお地主神社の桜は平安時代から地主桜(地主の桜)と言われています。
地主桜は謡曲「田村(たむら)」・「熊野(ゆや)」、平安時代末期の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」、室町時代の小歌の歌謡集「閑吟集(かんぎんしゅう)」、江戸時代の文楽「新薄雪物語(しんうすゆきものがたり)」などに登場し、松尾芭蕉(まつおばしょう)の師・北村季吟(きたむらきぎん)は「地主からは 木の間の花の 都かな」と詠みました。
第52代・嵯峨天皇は奈良時代後期の786年(延暦5年)10月3日に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の第2皇子として生まれました。799年(延暦18年)2月に元服し、君主の器量を持っていたことなどから父・桓武天皇に愛されたと言われています。803年(延暦22年)に三品(さんぼん)中務卿(なかつかさきょう)になり、806年(延暦25年)に弾正尹(だんじょうのいん)になり、806年(延暦25年)に兄・安殿親王が第51代・平城天皇に即位すると皇太弟に立てられました。809年(大同4年)に兄で、第51代・平城天皇から譲位されて第52代・嵯峨天皇に即位し、甥で、第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王を皇太子にしました。しかし810年(弘仁元年)に平城上皇が復位を試みた薬子の変(くすこのへん)が起こり、皇太子・高岳親王が廃され、異母弟・大伴親王(第53代・淳和天皇)が皇太弟に立てられました。823年(弘仁14年)に大伴親王(第53代・淳和天皇)に譲位し、833年(天長10年)に大覚寺の前身である離宮・嵯峨院に御所を新造し、大沢池が造られました。第52代・嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)・新撰姓氏録(しょうじろく)などを編纂させ、葵祭(あおいまつり)に奉仕する賀茂斎院(かものさいいん)を設置し、蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)などを設けて律令制の補強しました。また第52代・嵯峨天皇は能筆で知られ、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)と橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられました。なお第52代・嵯峨天皇は842年(承和9年)8月24日に崩御しました。
佐野籐右衛門は植藤造園(うえとうぞうえん)の当主が襲名しています。植藤造園は江戸時代後期の1832年(天保3年)3月1日に創業し、代々植木職人として仁和寺(にんなじ)に仕え、造園工事に携わってきました。第14代・佐野籐右衛門は明治時代から日本各地の滅び行く桜を憂って名桜の保存に努め、現在約200種を保存しています。なお植藤造園は現在庭園の設計・監理・施工・管理に関する一切の業務を行い、国内だけでなく、海外でも業務を行っています。ちなみに第16代・佐野藤右衛門は勲五等双光旭日章を受章し、ユネスコからピカソ・メダルも授与されたそうです。第16代・佐野藤右衛門は桜守として知られています。
地主神社見どころ

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