地蔵院(椿寺)椿見ごろ2024(3月下旬~4月中旬頃)

地蔵院(椿寺)椿見ごろ(見頃)

地蔵院(椿寺)椿見ごろ(イベント・・・)を紹介。地蔵院には樹齢約120年の2代目・散り椿(京都市の天然記念物)が植えられています。散り椿は1本の木に白・赤・ピンク・絞りなどに咲き分け、沢山の色が見られることから五色八重とも言われています。また散り椿は花びらが一片一片散ることから散り椿と言われています。(詳細下記参照)

【地蔵院(椿寺)椿見ごろ(例年時期)】
地蔵院(椿寺)の椿見ごろは例年3月下旬頃から4月中旬頃です。なお椿の見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都椿名所・見ごろ

【地蔵院(椿寺)椿見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市北区大将軍川端町2
最寄り駅・バス停・・・北野白梅町(徒歩約5分)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅からは50系統(B2乗り場)、101系統(B2乗り場)、205系統(B3乗り場)
*四条河原町からは51系統、203系統、205系統
*四条烏丸からは55系統、101系統、203系統
*河原町丸太町からは10系統、204系統、205系統
路線・時刻表・運賃チェック

*嵐電(京福電鉄)北野線の場合、最寄り駅は北野白梅町駅(徒歩約7分)

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【地蔵院(椿寺)椿見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
地蔵院(椿寺)は京都で良く知られている椿の名所です。地蔵院の椿見ごろは例年3月下旬頃から4月中旬頃です。
地蔵院には樹齢約120年の2代目・散り椿(京都市の天然記念物)が植えられています。初代・散り椿は安土桃山時代の1592年(天正20年)の文禄の役(ぶんろくのえき)の際、加藤清正(かとうきよまさ)が朝鮮の蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰り、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に献木しました。その後関白・豊臣秀吉が1587年(天正15年)の北野大茶湯の際、地蔵院を会所として使用したことと地蔵信仰に篤かったことから地蔵院に寄進したと言われています。初代・散り椿は豊臣秀吉遺愛とも言われ、書院の前庭に植えられていたが、1983年(昭和58年)に樹齢400年で惜しくも枯れました。散り椿は1本の木に白・赤・ピンク・絞りなどに咲き分け、沢山の色が見られることから五色八重とも言われています。また散り椿は花びらが一片一片散ることから散り椿と言われています。なお地蔵院には八重紅枝垂桜も植えられ、椿と桜の共演を見られることもあります。
散り椿は江戸時代の大本草学者・小野蘭山(おのらんざん)著の「本草網目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)・1803年(享和3年)」に記されたり、俳人・歌人である正岡子規(まさおかしき)が「椿寺の 椿の花は 散りてこそ」と詠んだりしています。また大正・昭和初期の日本画家・速水御舟(はやみぎょしゅう)が屏風絵「名樹散椿」を描きました。
加藤清正は1562年(永禄5年)7月25日に刀鍛冶・加藤清忠と鍛冶屋清兵衛の娘・伊都の子として生まれました。父が3歳の時に亡くなり、母・伊都が豊臣秀吉の生母・なかと従姉妹だったことから1573年(天正元年)に豊臣秀吉の小姓として仕えました。1582年(天正10年)に本能寺の変が起こると豊臣秀吉に従って山崎の戦いに参加しました。翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで山路正国を討ち取って武功を挙げ、賤ヶ岳の七本槍に数えられました。1586年(天正14年)からは九州平定に参加し、佐々成政が改易されると肥後北半国を与えられ、熊本城を改修しました。1592年(天正20年)から文禄・慶長の役に参加したが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると帰国しました。その後江戸幕府初代将軍・徳川家康に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで徳川方(東軍)に参加しました。なお加藤清正は1611年(慶長16年)8月2日に亡くなりました。
椿は日本原産のツバキ科ツバキ属の常緑樹(照葉樹林)です。椿は北海道などを除く、日本各地に自生しています。椿は日本最古の正史「日本書紀」に第12代・景行天皇が熊襲(くまそ)の乱を鎮めた際、土蜘蛛(つちぐも)に対して海石榴(ツバキ)の椎を用いたと記されています。椿は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉が茶の湯に好んで用いると茶道で茶花として重要な地位を占めるようになりました。椿は江戸時代以降に多くの園芸品種が作られ、500以上の園芸品種があると言われています。なお椿は邪悪を祓うとも言われ、正倉院には災いを祓う海石榴の卯杖(うづえ)が収められています。

【地蔵院・椿寺 歴史・簡単概要】
地蔵院(じぞういん)・椿寺は奈良時代の726年(神亀3年)に僧・行基(ぎょうき・ぎょうぎ)が第45代・聖武天皇の勅願により、大阪摂津の昆陽池(こやいけ)の畔に創建したのが起源と言われています。地蔵堂には行基が自ら刻んだとも言われる地蔵菩薩が安置されています。行基は民衆に仏法の教えを説き、寺院や道場を建立するだけでなく、困窮者の為に布施屋の設立などの社会事業を広く行い、738年(天平10年)に行基大徳の称号が授与され、745年(天平17年)には日本初の大僧正位を授与されています。その後平安時代に衣笠山(きぬがさやま)山麓に移されたが、南北朝時代の1391年(明徳2年)の明徳の乱(めいとくのらん)によって焼失し、1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が北山第(きたやまてい・金閣寺)を改築・新築した際の余財で再建されました。天正年間(1573年~1592年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命によって現在の場所に移され、1587年(天正15年)の北野大茶会の際に豊臣秀吉から五色八重散椿が寄進されました。江戸時代中期の1671年(寛文11年)に善曵和尚が八宗兼学から浄土宗に改めて知恩院(ちおんいん)の末寺になり、善導大師(ぜんどうだいし)作で重源上人(ちょうげんしょうにん)が招来した五却思惟阿弥陀如来が本尊になりました。
地蔵院は浄土宗の寺院です。
*参考・・・地蔵院・椿寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

【地蔵院(椿寺)椿見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
地蔵院(椿寺)(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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