城南宮ツツジ・サツキ見ごろ2024(4月下旬~5月上旬頃)
城南宮ツツジ・サツキ見ごろ(見頃)
城南宮ツツジ・サツキ見ごろ(時期・イベント・・・)情報を紹介しています。城南宮には神苑・楽水苑に平戸ツツジ・霧島ツツジ・サツキが植えられ、ツツジ・サツキと神苑の光景が美しいと言われています。平戸ツツジ・霧島ツツジは室町の庭・桃山の庭・絵馬舎周辺、サツキは平安の庭・水石亭周辺などに植えられています。(詳細下記参照)
【城南宮ツツジ・サツキ見ごろ(例年時期)】
城南宮のツツジ・サツキ見ごろは平戸ツツジが例年4月下旬頃、霧島ツツジ・サツキが例年5月上旬頃です。ただツツジ・サツキ見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都ツツジ・サツキ名所・見ごろ
【城南宮ツツジ・サツキ見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
最寄の駅・・・竹田駅(徒歩約15分)
路線は次の通りです。
*京都駅からは近鉄京都線
【城南宮ツツジ・サツキ見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
城南宮はツツジ(躑躅)・サツキ(皐月)の名所です。城南宮のツツジ・サツキ見ごろは平戸ツツジが例年4月下旬頃、霧島ツツジ・サツキが例年5月上旬頃です。
城南宮には春の山・平安の庭・室町の庭・桃山の庭・城南離宮の庭から構成されている神苑・楽水苑(らくすいえん)に平戸ツツジ・霧島ツツジ・サツキが植えられ、ツツジ・サツキと神苑の光景が美しいと言われています。平戸ツツジ・霧島ツツジは室町の庭・桃山の庭・絵馬舎周辺、サツキは平安の庭・水石亭周辺などに植えられています。ちなみに城南宮ではヤマブキ・イチイ・フジなども植えられ、ツツジ・サツキと一緒に楽しめる時期もあります。なお室町の庭と桃山の庭の間に建てられたお茶席・楽水軒では抹茶と季節の花などをかたどったお菓子を味わうことができます。
神苑・楽水苑は昭和の小堀遠州と讃えられた中根金作が作庭しました。神苑・楽水苑は源氏物語花の庭で、趣の異なる5つのエリアで構成されています。
平安の庭は平安時代の貴族の邸宅、寝殿造(しんでんづくり)の庭をモデルにして作庭されています。平安の庭は池の中に中ノ島があり、段落ちの滝から清流が注ぎ、二筋の遣水(やりみず)が流れ、先に進むと春季・秋季に曲水の宴(きょくすいのうたげ)が行われる苔の庭が広がっています。
室町の庭は茶道・生花・能楽などが大成された室町時代の様式で作庭された池泉回遊式庭園です。室町の庭は池の中央に不老長寿を象徴する松が植えられた蓬莱島(ほうらいじま)があり、その対岸に3つの石を用いた三尊石(さんぞんせき)が配され、理想の世界を象徴しています。
桃山の庭は水を用いずに海を表した枯山水様式の庭園です。桃山の庭は広々とした芝生が大海原、点在する岩が沿岸の島々を表します。桃山の庭は欧州の文化に出会い、武士が天下統一を目指した桃山時代の豪壮な気風を反映しているそうです。
霧島ツツジ(霧島躑躅)はツツジ科ツツジ属の常緑低木です。霧島ツツジは鹿児島に野生するサタツツジ(佐田躑躅)とヤマツツジ(山躑躅)を主とし、ミヤマキリシマ(深山霧島)が加わった交配種とも言われています。霧島ツツジは樹高が60センチ~90センチで、葉は広い楕円形です。霧島ツツジは春に小枝の先に紅色の漏斗状の花を数個つけます。
平戸ツツジ(平戸躑躅)はツツジ科の常緑低木です。平戸は古くから交通・交易の中心地であったことからケラマツツジ(沖縄諸島)を主な親とし、キシツツジ(西部日本)・リュウキュウツツジ(沖縄諸島)・モチツツジ(中部日本)・タイワンヤマツツジ(台湾)などと交雑し、平戸ツツジが生まれたと言われています。平戸ツツジは樹高1~2メートルで、花冠が大きく、白・桃・紅・赤・朱・紫色など多彩な花を咲かせます。
サツキ(皐月・杜鵑)はツツジ科ツツジ属の常緑低木です。サツキの名称は旧暦の5月 (皐月) 頃に一斉に咲くことに由来し、花期は他のツツジに比べると1ヶ月程度遅く、5月~6月頃になります。サツキは関東以西と九州南部に分布し、川岸の岩上などに自生しています。サツキは樹高が1メートル前後で、枝は細く密生して横に広がり、葉は披針形または狭倒披針形で先が尖っています。サツキは花色が深紅から白色で、咲き分け・絞り・八重咲などがあります。
【城南宮 歴史・簡単概要】
城南宮(じょうなんぐう)は第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后・神功皇后(じんぐうこうごう)による三韓征伐(さんかんせいばつ)の際に船上に立てた旗とともに神功皇后・大国主神(おおくにぬしのかみ・八千戈神(やちほこのかみ))を祀った真幡寸神社(まはたきじんじゃ)が起源と言われています。その後794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都の際に国土の安泰と都の守護を祈願し、国常立尊(くにのとこたちのみこと)が併祀され、城南神(じょうなんしん)と言われるようになりました。平安時代後期に白河上皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))が鳥羽離宮(とばりきゅう・城南離宮)を造営し、院政を始めたことから離宮の一部になりました。その後御所の裏鬼門を守る神となったが、室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))などの兵火で荒廃し、江戸時代に復興されました。なお1876年(明治10年)に名称を真幡寸神社に改めたが、1968年(昭和43年)に名称を城南宮に戻し、真幡寸神社は境内摂社として、新たな社殿が造営されました。
*参考・・・城南宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【城南宮ツツジ・サツキ見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
城南宮(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報